牧野富太郎

日本の植物学者

牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日文久2年4月24日) - 1957年昭和32年)1月18日)は、日本植物学者高知県高岡郡佐川町出身。

牧野 富太郎
(まきの とみたろう)
Makino Tomitaro.jpg
1934年
生誕 1862年5月22日文久2年4月24日
日本の旗 日本
死没 (1957-01-18) 1957年1月18日(94歳没)
国籍 日本の旗 日本
研究分野 植物学
出身校 名教館
佐川小学校(中退)
主な業績 多数の新種を発見・命名
植物学雑誌』の刊行
主な受賞歴 勲二等旭日章(1957年)
文化勲章(1957年)
命名者名略表記
(植物学)
Makino
プロジェクト:人物伝
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日本の植物学の父」といわれ[1]、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。

94歳で亡くなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数える。野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていたことが、日本植物学の父と言われる所以である。

生涯編集

1862年文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。

元は「成太郎」という名であったが、3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名している。その後は祖母に育てられた[2]

10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林1815年-1895年[3]に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。

名教館は学制改革により校舎はそのままに佐川小学校となった。そこへ入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[4]

酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた[4]。15歳から、佐川小学校の「授業生」すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。佐川で勉強するだけでは物足りなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。

そして、江戸時代本草学者小野蘭山の手による「本草綱目啓蒙[5]に出会い、本草学とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した[4]

東京では博物局の田中芳男小野職怒の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。

富太郎は本格的な植物学を志し、明治17年(1884年)、22歳の時に再び上京する。そこで帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。マキシモヴィッチからは、図を絶賛する返事が届いており、富太郎は天性の描画力にも恵まれていた。やがて25歳で、同教室の大久保三郎田中延次郎染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。同雑誌には澤田駒次郎白井光太郎三好学らも参加している。2014年現在も刊行されており、日本で最も古く権威ある植物学誌となっている[注釈 1]

同年、育ててくれた祖母が死去。

26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された[注釈 2]

この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていった[4]

1889年(明治22年)、27歳で新種の植物を発見、『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた。1890年明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。同年、小澤寿衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまった。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった[注釈 3]

一旦、郷里の高知に帰郷し、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開き、自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり、帰京。

31歳で、矢田部退任後の東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。助手の月給で一家を養っていたが[注釈 4]、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどしていたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある[注釈 5]

その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされなかった[4]。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。

1900年から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だかこれも松村の妨害により、四巻で中断してしまった。

1926年大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ[6]の協力を得て、個人で『植物研究雑誌[7]を創刊したが、3号で休刊した。以降は、津村の協力により編集委員制で現在も刊行されている[注釈 6]

1912年(大正元年、牧野50歳)から1939年昭和14年、77歳)まで東京帝国大学理科大学講師を勤める。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任している。

 
牧野富太郎墓碑

1927年4月(昭和2年)、65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種のに翌年死去した妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。

1940年昭和15年)、退官後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。

1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。

1950年(昭和25年)、日本学士院会員

1951年(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」が組織。文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われた[8]。同年設立された文化功労者第1回の対象者となる。

1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民。

1954年(昭和29年)頃から病気がちになり、病で寝込むことが多くなった。

1956年(昭和31年)、「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行。同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民。同じく同年、高知県に牧野植物園が設立されることが決定された。

1957年(昭和32年)、94歳で死去。没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章文化勲章を追贈された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。郷里の佐川町にも分骨されている。

 
高知県立牧野植物園牧野富太郎記念館本館

1958年(昭和33年)4月、高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園した[9]

家族編集

子供は13人生まれ、その内7人(3男4女)が成長した[10][11]

逸話編集

  • 植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。
  • 植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが[4]、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には富太郎の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。
  • 富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。しかし富太郎を追い出した松村任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。
  • 尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の第一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。
  • 多くの植物の命名を行い「雑草という名の植物は無い」という言葉を残している。[20]
  • 詩人児童文学作家山本和夫が自宅を訪れた際は、記念写真を撮るなど親交があった。
  • 生地の佐川町では、牧野富太郎を主人公にした連続テレビ小説の誘致活動が行われ [21]、2023年度前期の連続テレビ小説「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルとなることが決定した[22][23]神木隆之介が演じる。
  • 2021年に牧野富太郎の名を冠し、亡き妻・寿衛子の名をつけたスエコザサなどを原料にした、高知県初のクラフトジン、「マキノジン」が作られた[24]

発見、命名した植物編集

命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)とされる。自らの新種発見も600種余りとされる。

発見、命名した植物の例
ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ

和名については、ワルナスビノボロギクのような、当該植物種の性質を短い言葉で巧く言い表しているものもある一方で、ハキダメギクなど発見場所をつけただけの命名もある。イヌノフグリのように意味を考えると(犬の陰嚢の意ゆえ)、少々破廉恥なものもあるが、この植物の場合、もとは和歌山県における同種の方言からとったものではある。

亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、こうした学問の場以外の私情をはさんだ献名は例外的であった。マルバマンネングサの学名にはロシアの植物学者マキシモヴィッチにより、牧野の名が盛り込まれている。

また、生き別れになった愛人・お滝を偲んでアジサイHydorangea macrophylla Sieb. var. otakusaの学名を命名したシーボルトについて、otakusaの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書にのべていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることを突き止めたのも富太郎である。

著書一覧編集

 
1953年
  • 『利尻山とその植物』(1906年)
  • 野外植物の研究』(共同刊行:参文社・積文社、1907年)*編者:博物学研究会, 校閲:牧野富太郎
  • 野外植物の研究 続』(共同刊行:参文社・積文社、1907年)*編者:博物学研究会, 校閲:牧野富太郎
  • 『植物学講義』(大日本博物学会、1913年、第7巻のみ1914年)
    • 第1・2巻「植物記載学. 前・後篇」
    • 第3巻「植物採集標品製作並整理貯蔵法」
    • 第4・5巻「羊歯及種子植物ノ形態. 正・続篇」
    • 第6巻「植物自然分科検索表」
    • 第7巻「植物分類学 巻1」
  • 『趣味の植物採集』(三省堂、1935年)
  • 『草木志 : 随筆』(南光社、 1936年)[25]
  • 『趣味の草木志』(啓文社、1938年)
  • 『植物記』(桜井書店、1943年)
  • 『牧野植物混混録』(鎌倉書房、1号<1946年5月>~10号<1949年3月>)
  • 『趣味の植物誌』(壮文社、 1948年)
  • 『牧野植物随筆 続』(鎌倉書房, 1948年)
  • 『四季の花と果実』(通信教育振興会、1949年6月)
  • 『植物一日一題 : 随筆』(東洋書館、1953年)
  • 『若き日の思い出』(旺文社、1955年1月)
  • 『牧野植物一家言』(北隆館、1956年)
  • 『草木とともに』(ダヴィッド社、1956年)
  • 『牧野富太郎自叙伝』(長嶋書房、1956年)『牧野富太郎自叙伝』 講談社学術文庫、2004
  • 『牧野富太郎植物記』 全8巻、中村浩編、あかね書房、1973-1974
  • 『植物知識』講談社学術文庫、1981
    • 『四季の花と果実』逓信省、1949 を改題し仮名遣い表記を改め、註を付したもの。巻末に伊藤洋(東京教育大学名誉教授)による牧野富太郎の略歴説明がある。
  • 「ムジナモ発見物語り」(作品社『日本の名随筆 94:草』、1990年)
  • 『植物一家言 草と木は天の恵み』 小山鐵夫監修、北隆館、2000
  • 『牧野植物随筆』 講談社学術文庫、2002
  • 『牧野富太郎選集』 全5巻、学術出版会、2008
  • 『植物一日一題』ちくま学芸文庫、2008
  • 『牧野富太郎植物のはなし』 1、中村浩編、草土文化、2010
  • 『花物語 続植物記』 ちくま学芸文庫、2010
  • 『植物に魅せられた二人 : シーボルトと牧野富太郎の植物標本 : 牧野富太郎生誕150年記念企画展図録』(津山洋学資料館、2012年10月)

図鑑・図譜・図説編集

  • 『日本植物図鑑』(北隆館、1925年)
  • 『牧野日本植物圖鑑 : 學生版』(北隆館、1949年4月)
  • 『原色日本高山植物図譜』 (誠文堂新光社、1953年)
  • 『普通植物検索図説』(高陽書院、1970年)
  • 『原色牧野日本植物図鑑』(北隆館、1985年4月)
  • 『牧野新日本植物図鑑』(北隆館、1996年)
    • 『原色牧野日本植物図鑑』全3巻(北隆館、2000年)*『牧野新日本植物図鑑』の植物図を着色したもの。

博士論文編集

  • 『日本植物考察(英文)』(東京帝国大学、学位:理学博士、1927年4月16日)

学術雑誌編集

  • 「万葉集の縄ノリ」(アララギ発行所『アララギ』42巻8号39~43頁、1949年8月)
  • 「ゴキブリでは意味をなさぬ」(日本科学協会『採集と飼育 = Collecting and breeding』12巻10号317頁、1950年10月)
  • 「私の信条」(岩波書店『世界』61号71~73頁、1951年2月)
  • 「私の短歌観」(短歌研究社『短歌研究』8巻9号、1951年9月)
  • 「ホテイナリヒラの来歴」日本竹笹の会『富士竹類植物園報告 = The reports of the Fuji Bamboo Garden』12号6~8頁、1967年11月)
  • 「竹の開花について」(日本竹笹の会『富士竹類植物園報告 = The reports of the Fuji Bamboo Garden』13号6頁、1968年12月)

書簡編集

  • 『牧野富太郎書簡 緒方益井(渡辺伯爵家)宛 (渡辺千秋関係文書)』(1918年11月26日)
  • 『牧野富太郎竹下英一宛書簡』(編著:川端一弘、2020年3月)

伝記など編集

  • 上村登 『牧野富太郎伝』 六月社、1955、『花と恋して 牧野富太郎伝』 高知新聞社
  • 渋谷章 『牧野富太郎 私は草木の精である』 リブロポート シリーズ民間日本学者、1987(のち平凡社ライブラリー)
  • 武井近三郎 『牧野富太郎博士からの手紙』 高知新聞社、1992
  • 俵浩三 『牧野植物図鑑の謎』 平凡社新書、1999
  • 池田健 アート絵本『まきのまきのレター』ENYSi社、2019

子供向け伝記編集

牧野を題材・ヒントにしている作品編集

小説編集

  • 池波正太郎 「牧野富太郎」『武士の紋章』 新潮文庫、1994
  • 大原富枝 『草を褥に 小説牧野富太郎』 小学館、2001
  • 朝井まかて『ボタニカ』祥伝社、2022年1月13日。ISBN 9784396636173

映画編集

2009年の映画『黄金花』で富太郎をモデルにした“牧老人”を原田芳雄が演じた。

テレビドラマ編集

2023年度前期のNHK連続テレビ小説らんまん』で、牧野富太郎をモデルにした主人公“槙野万太郎”を、神木隆之介が演じる[26][27]

関連人物編集

田中芳男

富太郎は1883年(明治16年)、第2回内国勧業博覧会見学のため上京し、その際、文部省博物局を訪ね、田中芳男と小野職愨に小石川植物園を案内してもらっている。まだ無名の富太郎が、3年後にコーネル大学に留学した東京大学理学部植物学教室の誇り高き教授、矢田部良吉の許しを得て、この教室に出入り出来るようになったのは、田中芳男と田中の師である伊藤圭介の力があった。

博物館行政や多くの勧業殖産に貢献し、後に貴族院議員になった田中と富太郎は本の貸し借りをするなど親しく交友があり、それは24歳年上の田中が亡くなるまで続いた。

池長孟

富太郎は1916年(大正5年)12月、生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。

富太郎の窮状を知った渡辺忠吾は、『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書き、『大阪朝日新聞』がこれを転載した。

記事は反響を呼び、神戸から二人の篤志家が現れた。一人は久原房之助、もう一人が20歳の京都帝国大学生の池長孟であった。

12月21日、富太郎は寿衛子夫人とともに神戸に向かう。孟は父、池長通の遺産の中から3万円で標本を買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出た。感激した富太郎はこの申し出を固辞、標本は通が建てた池長会館に所蔵されることになり、会館は池長植物研究所と改称される。

これで富太郎は困窮時代の危機を脱することになる。また、孟は富太郎にその後も研究費を援助する[28]

関連施設編集

高知県立牧野植物園
高知市五台山に、没後1年目の1958年(昭和33年)に富太郎の生前の希望も反映し開園した。敷地は6haに拡張され、1500種、13000株の植物がうえられている。開園当初は牧野の偉業を残し、観光植物園としての色彩が濃かったが、現在は有用植物に関する多くの研究者を擁し、世界的研究機関としての地位を築きつつある。
牧野富太郎資料展示室
高知県佐川町の佐川町総合文化センター内にある展示室で、富太郎の眼鏡や絵の具、所蔵本、手紙や墨書など遺品を多く収蔵している。
牧野富太郎記念館
上記、植物園内の付属施設で、本館と展示館の2つの建物にわかれる。本館には遺族から寄贈された蔵書約4万5000冊、直筆の原稿、写生画等、5万8000点が収められた牧野文庫を始め、植物に関する研究室などがある。展示館では博士の生涯に関する展示などがある。
建築設計は内藤廣による。
練馬区立牧野記念庭園
東京都練馬区東大泉の自宅跡地を一般公開したもの。340種あまりの植物が植えられ、記念館には遺族から寄託されている博士の遺品が展示されている。2010年(平成22年)8月に記念館と講習棟を改修し再オープンした。常設展示に加え企画展示室では関根雲停服部雪斎の植物図展覧会や植物標本の展覧会が開催されている。
東京都立大学牧野標本館
没後、遺族から寄贈された40万点の標本が収蔵され、一部は画像データベース化され一般公開されている。富太郎が90年の生涯を掛けて採集した膨大な植物標本の整理には半世紀の時間を要した。
牧野富太郎句碑
広島県北広島町八幡(旧、芸北町内)の臥龍山麓八幡原公園に1999年、富太郎が詠んだ句碑が建立された。句碑に刻まれた句は、富太郎が1933年(昭和8年)にはじめて八幡を訪れた際、湿地一面に咲くカキツバタの自生地をみて感激し詠んだものとされる。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 創刊号表紙
  2. ^ マルバマンネングサには牧野とマキシモヴィッチの名前の双方から由来する学名がつけられている。
  3. ^ 矢田部は他にも、伊藤篤太郎(理学部教授伊藤圭介の孫)と新種(トガクシソウ)の命名(先着順)を巡って対立し、伊藤を出入り禁止にしている。破門草事件として知られるこの件については、トガクシソウの項目参照。
  4. ^ 子供は13人生まれ、育ったのは7人。
  5. ^ 妻の壽衛子は子供たちに対し「我が家の貧乏は学問のための貧乏であるので、恥じることはない」と言い聞かせていた。
  6. ^ 1916年(大正5年)4月に牧野富太郎によって創刊され、1933年まで引き続き個人で編集されていた。その後は、朝比奈泰彦(1933-1975)、原寛(1975-1987)、柴田承二(1987-2006)、大橋広好(2006-現在)が代々の編集主幹または代表委員(編集長)を務めている。

出典編集

  1. ^ 希少なシダ89年ぶり発見 「日本植物学の父」採集以来 伊吹山麓、アマ研究者「運命的」|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞” (日本語). 京都新聞. 2021年6月12日閲覧。
  2. ^ 富太郎の生涯について”. 牧野記念庭園情報サイト. 2020年4月24日閲覧。
  3. ^ 蔵元紀行”. 地酒蔵元会. 2020年4月24日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 天野郁夫『学歴の社会史…教育と日本の近代』平凡社〈平凡社ライブラリー〉(原著2005年1月6日)、初版、pp. 85-88。ISBN 45827652622009年1月22日閲覧。
  5. ^ 本草綱目啓蒙”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2020年4月24日閲覧。
  6. ^ ツムラの歴史 1924年~1933年”. ツムラ. 2020年4月24日閲覧。
  7. ^ The Journal of Japanese Botany”. ツムラ. 2020年4月24日閲覧。
  8. ^ 「牧野標本に補助金」『朝日新聞』昭和26年1月20日
  9. ^ 牧野植物園概要
  10. ^ a b c 代表的人物及事業』時事通信社、1913年(日本語)。
  11. ^ 牧野富太郎 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞”. www.ifsa.jp. 2022年2月3日閲覧。
  12. ^ 植物記』桜井書店、1943年(日本語)。
  13. ^ 牧野博士と寿衛子夫人 | 練馬わがまち資料館”. www.nerima-archives.jp. 2022年3月15日閲覧。
  14. ^ 茨城人名録 - 国立国会図書館デジタルコレクション” (日本語). dl.ndl.go.jp. 2022年3月15日閲覧。
  15. ^ a b 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “牧野鶴代とは” (日本語). コトバンク. 2022年2月3日閲覧。
  16. ^ 『新聞集成昭和編年史』31、明治大正昭和新聞研究会、1955年、324頁。
  17. ^ 牧野一浡 練馬区立牧野記念庭園記念館・学芸員【前編】” (日本語). 練馬人図鑑 (2018年12月3日). 2022年3月15日閲覧。
  18. ^ 練馬区公園緑地課『花在れバこそ吾れも在り: 牧野記念庭園開園50周年』パレード、2008年4月24日(日本語)。ISBN 978-4-434-11734-3
  19. ^ a b c d (中国語) 人事興信錄. 人事興信所. (2003). https://books.google.com/books?id=0D80AQAAIAAJ&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PP585&dq=%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%A5%B3&hl=ja 
  20. ^ 牧野富太郎 植物博士の人生図鑑平凡社
  21. ^ 広報さかわ令和元年9月号P.23 2020年4月24日閲覧
  22. ^ 日本放送協会. “《2023年度 前期》連続テレビ小説 制作決定!作・長田育恵 / 主演・神木隆之介 連続テレビ小説 らんまん” (日本語). NHK_PR. 2022年2月2日閲覧。
  23. ^ 来年23年春の朝ドラは「らんまん」主演は神木隆之介「驚きました」日本植物学の父・牧野富太郎がモデル(スポニチアネックス)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2022年2月2日閲覧。
  24. ^ “「マキノジン」完成 高知県初のクラフトジン、富太郎ゆかりの植物など12種融合”. 高知新聞. (2021年12月12日). https://www.kochinews.co.jp/article/detail/528206 
  25. ^ 牧野‖富太郎 (1936). 草木志 : 随筆. 南光社. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005666545-00 
  26. ^ “朝ドラ:神木隆之介が主演 2023年度前期「らんまん」で“日本の植物学の父”に”. MANTANWEB (MANTAN). (2022年2月2日). https://mantan-web.jp/article/20220202dog00m200007000c.html 2022年2月2日閲覧。 
  27. ^ 来年の朝ドラ、神木隆之介さん主演 「らんまん」”. 産経ニュース (2022年2月2日). 2022年2月2日閲覧。
  28. ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京堺屋太一立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p237。

外部リンク編集