自由貿易

国家が輸出入に制限を設けない政策

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自由貿易(じゆうぼうえき、: free trade)は、関税など国家の介入や干渉を排して生産者や商人が自由に行う貿易を指す。学説としては、重商主義にもとづく保護貿易に対して、イギリスのアダム・スミスデヴィッド・リカードらによって唱えられた。貿易が利益になるというのは経済学における最古の命題の一つであり、自由貿易はこれにもとづいて推進される[1]

概要

貿易では、国が互いに財やサービスを売ると両国の利益となる。これは国際経済学における最も重要な洞察ともいわれる。貿易の便益は実体のある財だけでなく、サービス産業などにも及ぶ。国は貿易で利益を得るが、国内において特定の集団に害を与えることがある。そのため、どれだけの貿易を認めるかという論争が続いている[注釈 1][3]

自由貿易を支持する経済学的な理由としては、 (1) 効率性の利益について定式化した分析がある。 (2) 定式化に含まれない追加の利益がある。 (3) 複雑な経済政策の実施は難しいが、自由貿易は簡易である、などがある[4]。政治的には、完全な自由貿易の国は存在しないが、貿易自由化の国際機関として世界貿易機関(WTO)がある。WTOは諸国間の取引のルールを定め、より自由貿易に近い状態が実現されるよう努めている[5]

自由貿易の主張

  • 国外から安価な商品が輸入できる[6]
  • 国外に商品を輸出して利益が享受できる[6]
  • 国外から機械・原材料が輸入されることで、技術・スキルが移転される[6]
  • 国外への輸出機会を得ることで国内生産のスケールメリット(規模の経済)が活かされる[6]
  • 国外からの競争圧力によって、国内の独占の弊害を軽減できる[6]
  • 国外からの輸入を通じて多様な商品が消費できる[6]

上記に対する保護貿易論者の主張については、保護貿易#保護主義の主張を参照。

歴史

現在は、歴史的に見ても世界規模で自由貿易が実現されているといえるが、前述のように完全な自由貿易の国家は存在しない。国家は自由貿易と保護貿易を産業の状況や時代によって使い分けてきた[7]

貿易の自由についての古い記録は、交通の自由との関わりで海洋法や海事法に見られる。2世紀の古代ローマの法学者マルキアヌスは、海は所有の対象ではないと書いたとされ、ローマ帝国では海に管轄権はなかった。中世に入るとヴェネツィアがアドリア海の支配を主張し、他のイタリア都市国家やヨーロッパ各国でも近海の支配を主張した。海上貿易のための規則としては、東地中海にはビザンツ帝国でロードス海法英語版が用いられ、西地中海では14世紀頃にバルセロナで作られたコンソラート・デル・マーレ英語版が私法や商事紛争の解決を定めた。領有について最も問題となったのがトルデシリャス条約(1494年)で、アメリカ大陸の陸地と海洋がスペインポルトガルによって分割され、教皇アレクサンデル6世が承認した[8]。これに対してイギリスエリザベス1世は、海の領有や海上貿易の独占を許さないと主張した。エリザベス1世はフランシス・ドレイクらの私掠船による略奪を公認しており、航海の自由は私掠船政策を維持するためにも必要だった[注釈 2][10]。オランダの法学者フーゴー・グロティウスは、『自由海論』(1609年)でポルトガルの海洋支配に対して海洋の自由を提唱した。グロティウスの説は新興国であるオランダの国益に沿う内容でもあった[11]

保護貿易から自由貿易へ

 
茶税法に反対するアメリカ住民の抗議行動(ボストン茶会事件)。航海条例にはじまるイギリスの保護貿易はアメリカ独立の原因にもなった。

イギリスでは17世紀から18世紀にかけて重商主義による保護貿易が進められたが、名誉革命(1688年-1689年)によって市民には営業の自由(freedom of trade)が保障されていた。英語の trade は経済活動に幅広く使われる語であり、国内の取り引きや、国外の貿易にあたる。個人の経済活動の自由を貿易の自由につなげたのが、『国富論』(1776年)を書いたアダム・スミスだった[12]

イギリス政府は綿織物業、鉄鋼業、造船業、海運業など急速に成長をしていた分野には増税をせず、発展をうながした。こうして19世紀前半にはイギリスは工業で世界的に優位に立った[13]。工業化と植民地を背景にした自由貿易が国をより優位にすると考えられ、産業資本家・商人・投機家・その他の国民に自由貿易が支持された。他方で、特権会社だったイギリス東インド会社や、保護貿易のための穀物法航海条例は19世紀に廃止された[注釈 3][15]

金本位制と自由貿易

 
イギリスで金本位制を確立したソブリン金貨(1817年)。イギリスの自由貿易を支えることにもなった。

イギリスの自由貿易を金融面で支えたのは、国際的な金本位制だった。イギリスは貨幣法 (1816年)英語版(1816年)を制定し、通貨のスターリング・ポンドを中心とした金本位制を成立させた。金本位制によって、国家の通貨発行額はその国が保有する金の量で決まり、輸出入によって金と通貨の量は自動的に調整されることになった。世界貿易は、1850年から1870年までの間に260%の増加をした[16][17]

欧米諸国は、イギリスに続いて金本位制や自由貿易を採用した[注釈 4]。イギリスとフランスは2国間貿易協定のコブデン=シュヴァリエ条約英語版1860年)を結び、関税の禁止や最恵国待遇を盛り込んだ。最恵国待遇は全ての条約国に最もよい条件を与えるので、条約国が増えるほど多くの国に低い関税が適用される。イギリスやフランスが他国と条約を結ぶことでヨーロッパは自由貿易体制が拡大し、アメリカは高関税を維持した[19]1866年から1877年は貿易自由化のピークであったが、大不況をへて、自由貿易を維持するイギリスと保護貿易を選ぶ国々に分かれた[注釈 5]。各国が保護主義化した原因には、金本位制も関係していた。輸入をして金が減少すると国内の通貨も減少するため、イギリス以外の国は保護貿易で輸入を防ぎ、通貨発行量を保とうとした[注釈 6][21]

1892年から1894年には景気回復期に入り貿易は拡大したが、イギリスをのぞく各国が保護貿易を行なっていた時期と一致する。各国はイギリスへの輸出が急増し、結果的にイギリスの自由貿易が保護貿易国の経済成長を支えた[注釈 7]。イギリス国内では保護貿易の国に対して関税を求める声が上がったが、当時は製造業に替わってシティ・オブ・ロンドンの金融業が発展しており、自由貿易を継続した[23]。各国は輸出で1909年から1913年に高い成長率を享受し、イギリスは貿易赤字を銀行業や保険業など金融の黒字によって埋め合わせた[注釈 8][25]

帝国主義と国際分業

 
1898年当時の帝国主義列強勢力図

欧米各国には勢力均衡が存在したが、その他の地域に対しては武力を背景に自由貿易を要求する帝国主義政策が進められた[注釈 9]。宗主国は植民地から自国向けの農産物や鉱物を輸入し、工業生産物を植民地へ輸出した。そのため保護貿易の国も植民地には自由貿易を強制した。当初は独占権をもつ企業が各植民地で経営し、やがて現地住民との契約という形をとるようになる[26]

 
合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)
左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)。日米和親条約によって鎖国体制の終了と貿易自由化が進んだ。

植民地とならずに独立を保った国も、欧米の貿易に組み込まれた。日本では鎖国体制にあった江戸幕府開国を選び、日米和親条約(1854年)をはじめとして各国と条約が結ばれた。開国後の交易による利益は推計GDPの約15%に達したといわれ、これが自由貿易の利益として最大の実例にあげられることがある[27]。タイは欧米諸国との条約で王室の貿易独占をほぼ廃止して自由貿易に加わり、治外法権や港の交易圏を認めつつ、国家主権の維持につとめた。欧米諸国と結んだ条約は関税自主権がない不平等条約だったため、条約の変更が課題となった[28]

アフリカをめぐっては、ベルリン会議(1884年)が開催されてアフリカ分割が定められ、アフリカ全土がヨーロッパの7カ国によって植民地化された[29]。東南アジアは4カ国によって分割されたが、植民地は相互でも貿易をするようになり、アジア経済圏における国際分業が成立した[注釈 10][30][31]。香港やシンガポールはイギリスの自由貿易の拠点となり、アジアの金融センターとなった[32]。東アジアには、イギリスや日本の他にフランス、アメリカ、ロシアも門戸開放を求めて進出した。日本は朝鮮王朝と不平等条約の日朝修好条規(1876年)を結んで経済進出をする。日清戦争後に日本は清から割譲された台湾を統治し、朝鮮の貿易は輸出額の80%から90%、輸入額の60%から70%が日本との取引となった[33]

世界大戦・大恐慌

イギリスは第一次世界大戦までは自由貿易と金本位制を継続していたが、大戦で戦費がかさんで金本位制を離脱する。加えてアメリカからは債務を負い、それまでのような貿易体制の維持が困難となった[34]。1920年代にアメリカは最大の貿易国となるが、孤立主義を継続して国際連盟に加盟しなかった[注釈 11]。アメリカの政策は世界経済が不安定になる要因となり、この経験をもとに世界大戦後のアメリカは自由貿易を推進することになる[36]

1930年代世界恐慌によって自由貿易圏諸国(欧州、米国、日本など列強と植民地)は、自国経済圏を保護する名目で貿易障壁を張り巡らした。これはブロック経済と呼ばれ、貿易の途絶によって各国では経済的な不利益が多大に生じた。このためアメリカのフランクリン・ローズヴェルト政権は、前政権の保護貿易政策の変更を目的として、互恵通商協定法(1934年)を制定した[注釈 12]。これによって関税率を引き下げる権限が議会から大統領に移譲され、イギリスをはじめ39カ国との協定に成功した[注釈 13][39][40]。日本は朝鮮半島に続いて満洲や東南アジアに進出して経済圏の拡大を意図したが、満洲事変(1931年)や仏印進駐(1940年)でアメリカと対立し、アメリカから輸入していた石油と鉄屑が不足する。また、東南アジアの貿易圏を破壊したために現地の支持を失った[41]

二度の世界大戦と大恐慌や保護貿易によって、世界の貿易量は大幅に減少した。工業製品の輸出額が第一次大戦前の水準に戻るのは、1970年代になってからとなる[42]

GATT・WTO体制

第二次世界大戦後にはアメリカの主導で貿易の自由化が進められた。その柱となったのは、通貨におけるブレトン・ウッズ体制と、貿易における関税及び貿易に関する一般協定(GATT。のちのWTO)だった。これは、保護貿易やブロック経済が大戦の要因であり、自由貿易によって平和を促進するという意図があった[43]。国際機関が設立され、ブレトン・ウッズ体制は国際通貨基金(IMF)と世界銀行に担われた。自由貿易における国際機関としては、国際貿易機構(ITO)が発案されたが成立しなかったため、GATTのもとで自由化が進められた[注釈 14]。GATT体制下では農業分野やサービス分野は基本的に自由化の対象外であり、工業分野においても、アンチダンピング課税相殺関税自発的輸出規制英語版セーフガード措置など、さまざまな例外措置が認められ、各国には貿易自由化による変化を緩和するための政策をとる余地が認められた。各国は、貿易自由化によって不利益を被る産業や階層に対して、補助金の給付や福祉政策などの補償的な措置を講じた[44]

GATT時代から貿易ラウンドが開催され、ケネディ・ラウンドで平均関税を35%下げ、ウルグアイ・ラウンドでは40%近く下げた。ウルグアイラウンド後の1995年には世界貿易機関(WTO)が設立された。その後にドーハ・ラウンドが開催されたが、それまでのラウンドで製造業の障壁が大幅になくなっていたことに加えて、残っていた農業に関する合意が取れず、事実上の停止となった[45][46]貿易依存度は、1960年代の24%から2000年代後半には60%を超え、世界金融危機の影響で大きく減少したのちに再び上昇している[注釈 15][48]。GATT時代にはサービス貿易知的所有権については主題とされず、WTOではサービス貿易についてはサービスの貿易に関する一般協定(GATS)、知財については知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS)で対応している[49]

構造調整

世界銀行やIMFは融資する国に条件をつける場合があり、構造調整プログラム英語版(SAP)と呼ばれた。構造調整の融資でも貿易の自由化が進められ、成功した例としては、インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、ベトナムなどがある[注釈 16][51]。他方、構造調整が経済成長に結びつかない国もあり、批判につながった。フィリピンでは自由化政策ののちも輸出の伸び率が低いままだった[52]。アフリカではサブサハラ・アフリカの経済成長率は2002年まで上昇しなかった[注釈 17][54]。1999年以降は、構造調整という名称はIMFと世銀のいずれでも使われなくなった[55]

貿易協定・経済協力

 
世界の経済統合段階:
(緑であるほど段階が高い)

GATT・WTOによる多国間交渉と並行して、2国間以上による自由貿易協定が増加した。GATTが認める特恵貿易協定には、関税同盟自由貿易圏がある。自由貿易圏は加盟国内の関税をかけず、外部に関税を設定する。西ヨーロッパでは経済圏の拡大による利益と安全保障を求めて欧州共同体(EC)を設立し、貿易障壁を撤廃して自由貿易圏を拡大した。これが現在の欧州連合(EU)となった[56]

その他に、北米・中米の北米自由貿易協定(NAFTA)、南米のメルコスール、EUとACP諸国ロメ協定、アフリカのアフリカ大陸自由貿易協定(AfCFTA)、南アジアの南アジア自由貿易圏英語版(SAFTA)、東南アジアのASEAN自由貿易地域(AFTA)、太平洋地域の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)、大西洋地域の大西洋横断貿易投資パートナーシップ協定(TTIP)などがある[57]。中国はアフリカとの協力を進めて、2000年から中国・アフリカ協力フォーラム(FOCAC)を開催する。優遇貸付や債務免除の他に、輸入品の無関税措置や、中国企業専用の経済特区として域外経済貿易特別区の建設を進めた。FOCACの第4回閣僚会議(2009年)では、全貿易品の95%まで無関税措置となった[58]

経済成長

ブレトン・ウッズとGATTの体制下で、日本とドイツは急速な復興と経済成長をする。日本は朝鮮特需をきっかけとして外貨不足を解消してアメリカへの輸出が増加し、ベトナム戦争によってアジアとの貿易が増えた。日本の高度経済成長は、自由貿易による成功の一例とされる[注釈 18][60][61]

1970年代以降の発展途上国の貿易自由化は、貿易の増加と製造業輸出の増加をもたらした。日本の後にはNIESと呼ばれる台湾、韓国、香港、シンガポールの4カ国が経済成長をとげる。台湾や韓国は、工業製品の輸出を増やすために輸出加工区を採用した。これは限定した地域で関税や法人税を減免して外国企業に開放し、その生産物は全て輸出するという二重貿易体制である。1980年代以降には、社会主義体制をとっていた中国、ベトナム、インドなどの国々も貿易自由化によって経済成長をとげた[62][63]。しかし、貿易自由化が必ずしも経済成長に結びつくわけではなく、中南米諸国は輸入代替工業化の時代よりも成長が鈍化している[64]

中国・インド

中国は工業の近代化を実現するために1978年から改革開放政策に変更し、経済成長をとげてゆく[注釈 19]。輸出加工区を参考にした経済特区や、委託加工の制度で自由貿易や外資を受け入れ、他の地域では貿易制限を続けた。こうして国営企業の雇用を維持しながら自由貿易のノウハウを蓄積し、2001年にはWTO加盟を果たす。加盟にあたって中国は関税引き下げ・輸入数量制限撤廃・直接投資の開放などを受け入れ、2011年には最大の貿易国となった[65][66]。中国が世界の製造業に占める割合は1991年の2.3%から2013年の18.8%まで増加し、直接投資受入額はWTO加盟後の10年間で8376億ドルとなり世界第2位である[67][68][69]

インドは1948年の独立から社会主義政策をとっており、1970年代の貿易依存率は約5%だった。1991年の湾岸戦争の影響でIMFの支援を受け、その引き換えとしてインドの経済改革英語版が進んだ。関税引き下げ、輸入ライセンスの撤廃があり、2005年には経済特区が認められて外資100%の出資も可能となった[注釈 20][71][72]。インドの1980年代の成長率は4%で、現在は8%近い[68]

東南アジア

東南アジアでは1970年代から外資導入の法律整備を進め、プラザ合意(1985年)以降は日本の製造業が東南アジアに進出した。ASEANの経済圏全体で工業化と輸出の増加が進み、産業内貿易が進展した[73]

インドネシアは1982年から1983年に不況となり、融資の条件として貿易の自由化を行った。関税の引き下げ、原材料輸入の自由化、関税割り戻しの導入、通貨ルピアの切り下げなどの政策パッケージによって1987年以降に発展がはじまる。輸入・外資・銀行業の規制も緩和された。輸出産業が発展し、従来の石油やガスに代わって工業製品の割合が増えた[74]。マレーシアは投資促進法(1986年)で外資が規制緩和され、1985年の約17%から1989年には約70%まで急増した。投資によって製造業が成長し、輸出の中心が石油から工業製品へと移った[75][76]。シンガポールは中継貿易を主体としていたが、マレーシアからの独立後(1965年)に製造業が発展して1980年には製造業のシェアが29%となった。外資の導入に積極的で、製造業の全雇用のうち外資は60%、直接輸出では90%に達している[77][78]。タイは輸出と投資の循環によって1980年代後半に成長を続け、輸出に占める工業製品の割合が農産品を上回った[注釈 21][80][81]。ベトナムは1986年のドイモイ政策で経済の自由化が始まり、農業から成果が表れて1989年には戦後初の米の輸出が可能となった。1994年にはアメリカの対ベトナム禁輸が解除され、外資法は100%の出資を認めて誘致を進めた[82][83]

経済学の観点

比較優位

自由貿易論の基礎にあたるものが、比較優位の思想である。国が貿易をする理由には主に2点あり、 (1) 互いの違いから利益を得る、(2) 自国で全てを生産するよりも効率よく財を得る[注釈 22]、という点にある。たとえば2国間で貿易をする場合、それぞれの国が比較優位を持つ商品を輸出すれば両国にとって利益になり得る[85]

比較優位の観点からは、貿易が有益な点を示すための限定条件はなく、競争力や公正という条件も必要がない。この点が、自由貿易において比較優位が支持される理由でもある。他方、比較優位には問題点や、成り立つための条件がある[注釈 23][87]。比較優位の思想は経済学の中で最古に属するため、経済学者はこの利益が誰にとっても自明であると錯覚しやすい[注釈 24][1]

構造的失業・賃金格差

貿易で最も損をする人々は、輸入部門と競争する人々である。輸入部門で競争する人々は低賃金になりやすく、転職をするとしても時間がかかる。ただし、失業率と輸入額には正の相関関係はなく、失業はマクロ経済的な現象であることを示している[注釈 25]。そのため、失業への対応としては自由貿易を制限する貿易政策ではなく、マクロ経済政策がより効果があるとされる[90]。貿易自由化を促進するために重要な政策として、自由化によって損失をこうむる人々への補填や、富の再分配失業手当雇用のセーフティネットなどの社会保障がある[91]

伝統的な貿易理論では、労働者や資本は機会によって移動するので賃金水準や失業は同一水準になるという前提があった。しかし、現実は硬直的という研究がある。ペティア・トパロヴァは、貿易自由化の影響が産業や地域によって違うことを示した。インドでは、国全体の貧困率は1991年の35%から2012年の15%まで急速に下がったが、貿易自由化の影響を強く受けた地域は貧困率の低下ペースが遅かった。また、貿易自由化の影響を強く受けた地域は児童労働の減少ペースも遅かった[注釈 26]。トパロヴァの手法は、その後に他の研究者によってアメリカ、スペイン、ノルウェー、ドイツなどでも使われて同様の結果を出している[93][94]

エリック・マスキンの労働者マッチング法の研究によれば、中間財のアウトソース傾向が強まると、発展途上国の熟練労働者は先進工業国の非熟練労働者と共同しやすくなり賃金が伸びる。しかし途上国の非熟練労働者は、グローバル化によって途上国内の熟練労働者との共同を失いがちになり、生産性が低下して賃金が伸びなくなる[注釈 27][95]

市場の失敗

市場メカニズムのみに任せた場合に外部経済があると、市場の失敗によって生産が社会的に求められる水準を下回る可能性がある。特に外部効果が多いといわれるハイテク産業などの新しい産業において、保護をして生産水準を維持するべきと論じられる。しかし、どの産業を保護すべきかの判断は困難であり、保護から脱せなかったり、利益団体のものとなるリスクもある。このため保護よりも自由貿易を支持する根拠となる[96][97]

経済成長

第二次世界大戦後の自由貿易と経済成長は正の相関を示したが、貿易自由化が成功したのは経済が成長していたからであり、その逆は自明ではないとするマイケル・クレメンス英語版ジェフリー・G・ウィリアムソン英語版の研究がある[98]

貿易政策・貿易協定

 
輸入関税の効果。縦軸Pが価格、横軸Qが量。A生産者余剰C が政府歳入。関税がPwからPtに上がると、生産者余剰が増えて国内生産者が受け取る価格は増える。輸入財の生産はQ1からQ2に増え、消費はC1からC2に減る。BD死重損失で、A + B + C + D の合計が消費者余剰の減少となる。国内生産者の利得よりも国内消費者の損失が大きい[99]

貿易政策は、経済学的には自由貿易からの逸脱とされ、次のような議論がある。 (1) 自由貿易からの逸脱費用は大きい。 (2) 自由貿易の便益のため、保護貿易的な政策の費用はさらに大きくなる。 (3) 自由貿易から逸脱する試みは政治的プロセスで覆される[100]。アメリカの経済学者の9割が意見を共有している問題の中には、「輸入関税や輸入割当は全体の経済的厚生を引き下げる」「アメリカ政府は雇用主が海外に仕事をアウトソーシングすることを制限するべきではない」などがある[101]

関税は、生産と消費に関して歪みを与える。政府が輸出入を決める管理貿易よりも、輸出入に関する競争によってイノベーションや学習の機会を与えたほうが、高い生産性の産業が効率性を高める[102]。貿易協定については、両国が自由貿易を選べばどちらも得をするが、単独で保護貿易を選べばどちらも損をするというゲーム理論における囚人のジレンマにあたる[103]

輸入割当によって数量を制限すると、輸入品のレントシーキングが拡大する。輸入割当を決めるためには組織にライセンスを発行するのが通例だが、ライセンスを得るために組織は費用をかけることになり、経済の生産リソースの浪費となる。また、数量制限によって輸入品の価格は関税と同じく上がる。関税との違いは、政府歳入とはならないという点にある。レントシーキングは保護貿易の費用よりも高い損失になる場合がある[104]。輸出自主規制では、自国政府が輸出数量を規制する。この場合は、輸出国の輸出業者がレントを得る[105]。輸出補助金は、国の輸出品の相対価格を上げ、相対需要を下げて交易条件を悪化させる[注釈 28][106]

貿易協定にはマイナスの効果もありうる。関税同盟によって同盟外の貿易が実現される場合はプラスの効果だが、同盟外の貿易が同盟内に替わるだけならばマイナスとなる可能性がある。自由貿易圏を作った場合も、域内貿易だけが行われるなら参加国にとってマイナスの可能性がある[注釈 29][108]

政治

政治制度と貿易

貿易は各時代の政治制度と密接な関係にある。19世紀の貿易は金本位制にもとづいていたので、政府の通貨発行量は金準備で制限されており、国際均衡が国内均衡に優先していた。このために失業や貧困など国内の経済問題の解決が遅れ、結果的に大恐慌以降のファシズムナチズム共産主義の政権につながった[109]。自由貿易と金本位制という組み合わせは、国民の発言力が小さい場合に可能とされる。たとえば普通選挙制度がないために選挙民が少なかった時代である[110][111]

国家主権・民主主義・グローバル化の3要素のうちで同時に達成できるのは2つまでという理論があり、世界経済の政治的トリレンマと呼ばれる。たとえば自由貿易と金本位制の時代はグローバル化・国家主権の2つ、ブレトン・ウッズ体制は国家主権・民主主義の2つ、グローバル・ガバナンスは民主主義・グローバル化の2つとなる[注釈 30][112]。1975年から2016年の139カ国を対象とした調査では、先進国は民主主義が一貫して高いためにグローバル化と国家主権の2択となっており、途上国ではトリレンマになっていた。また、グローバル化が進展するほど、先進国と途上国のいずれも政治的・経済的に安定するという結果だった[113]

政治思想

自由貿易は、国際秩序を保つ政策としても論じられた。勢力均衡の時代には、マキャヴェッリトマス・ホッブズの政治思想とは異なり、商業による国家の結びつきが重視された。哲学者のデイヴィッド・ヒュームは著書『貿易の嫉妬について』(1758年)で、貿易にまつわる感情を分析し、国家は貿易によって相互利益を得ると論じた[114]。アダム・スミスは『国富論』で戦争と貿易を比較し、隣国の経済的な繁栄は敵対状態ならば危険でも、平和で貿易ができるなら自国の繁栄につながると論じた[115][116]。政治家のリチャード・コブデンは、自由貿易によって軍備の縮小と平和がもたらされると論じた[117]。アメリカの互恵通商法を構想したコーデル・ハルは、国内の経済的独占のために関税が利用されていると考えて保護主義に反対し、第一次大戦中には自由貿易を平和と結びつけた。貿易の機会がなければ、各国は経済ナショナリズムや、より攻撃的な政策を選ぶとハルは考えた[118]

自由主義と重商主義

自由主義は国家と民間を区別し、重商主義は国家と民間が協調して共通の目標を追求するとみなす。自由主義は消費者利益を重視し、消費者が安い財やサービスを得るために障害を取り除こうとする。重商主義は生産者利益を重視し、高い雇用水準と賃金で生産者を支えようとする。貿易においては、自由主義者は輸入から得られる利益を重視し、重商主義者は輸出から得られる利益を重視する[119]

貿易政策

主な貿易政策として、関税輸出補助金輸入割当、自発的輸出規制、戦略的貿易政策があり、いずれも自由貿易にとっては負の側面がある[120]。貿易は各国の所得分配に影響を与えるため、貿易政策は国家間の利害よりも国内での利害が重要となる[43]

関税
 
日本の関税率(1870年–1960年)

関税の引き下げは、単独よりも相互合意で行う方が利点がある。主な理由として、 (1) 相互合意なら、さらなる自由化の交渉がしやすい。(2) 貿易についての合意は当事国の貿易戦争を回避する[121]。1891年から2010年のアメリカの平均関税率は、1930年初頭[注釈 31]に激増したのちは下がり続けており、関税率の減少は貿易自由化の国際交渉の成果とされる[103]

輸入割当・輸出自主規制

消費者にとっては、割当数が決まっているよりも、関税を払って買える方が望ましい。また、国内に独占企業がある場合は独占の弊害が生じる[122]。輸出自主規制の例として、日米貿易摩擦における1981年から1984年の日本の自動車自主規制や、GATTの多国間繊維協定などがある[105]

輸出補助金

輸出補助金は、補助を出す国にとって損となり、その他の地域にとっては得になる。そのため輸出補助金は国内向けの政策としては矛盾しているが、政治的には国内で支持される場合がある。例として、アメリカやフランスによる農産物への補助がある[123][124]

食料安全保障

トマス・マルサスは、平時には自由貿易は望ましいが世界的な凶作のような非常事態で穀物輸入を外国に依存するのはリスクがあるとした[注釈 32][126]。それに対しリカードは、世界各国から穀物を輸入するほうが不作時にリスクが分散できるとした。理由として、(1) 穀物の輸入を制限すると国内で生産しなければならなくなり、比較劣位においては国内の耕作は利潤率を下がる。 (2) 凶作ならば穀物の国際価格は上昇し、輸出国は余計に輸出しようと生産を増やそうとする。 (3) 世界中が同時に不作になることは考えられない、などをあげた[127]

ナポレオン戦争において、イギリスでは食料品が値上がりをして地主の利潤が大きかった。地主は戦後も高値を保つために政治家に働きかけて穀物法を制定させた。しかし、マンチェスター商工会議所を中心に反穀物法同盟の運動が起き、穀物法は廃止された。反穀物法同盟には綿業者などの経営者が多く、穀物法を廃止して労働者の食事を安くするために「朝食を無税に」というスローガンを使った[注釈 33][129]。食料自給を理由とする保護貿易論は、現在でも農業分野で議論される。

社会保障

自由貿易と社会保障は密接に関連している。社会保障制度が整備されていない時代は、貿易で生じる所得再配分の問題は、移民や保護貿易によって解決される傾向にあった。社会保障が充実すると貿易に対する反対が大きくならず、自由化が進みやすくなるため、貿易先進国はセーフティネットが充実する傾向にある[130]。しかし、貿易で損害をこうむった人々への公的支援は、失った所得を埋め合わせるには足りないという研究もある。アメリカでは貿易が原因で失業した労働者を米国貿易調整支援制度(TAA)で支援するが、補償の金額は足りない[注釈 34]。そのため失業した労働者の1割が障害年金で埋め合わせており、雇用機会を失っている[132]

貿易協定

貿易協定は、比較優位と重商主義の双方から支持される理由がある。比較優位の立場は貿易障壁を下げて産業の特化ができると主張し、重商主義の立場は輸出と雇用を増やせると主張する。この二つは相反しているが、貿易協定を指示する国はどちらも可能という矛盾した主張をする場合がある。TPPとTITPについては、交渉が秘匿されている点、大企業の利益を優先している点で批判されている[133]

略奪

重商主義は他国からの富の奪取を奨励するため、私掠船による略奪や戦争における貿易船の拿捕を奨励する傾向があった。自由貿易の支持者は戦争時に貿易船を攻撃することに反対し、貿易を戦争から切り離すことを提案した。特に、中立国の貿易の安全を守ることを自由船自由貨の原則とも呼び、マンチェスター学派は戦時の敵国とも自由な貿易が行われるよう主張した。この提案はクリミア戦争(1853年-1856年)で一部が実現し、パリ宣言(1856年)で中立貿易の安全保障が決定した[134]

環境・倫理

人権・労働基準・環境基準などが大きく異なる国同士における自由貿易は議論となっており、WTOではこれまで問題とされることが少なかった。こうした面はソーシャルダンピングとも呼ばれ、政治的に問題となる場合がある[135]。また、環境汚染などの外部不経済によって、損失が自由貿易の便益を上回る可能性がある[136]。自由貿易をめぐっては以下のような議論や対立がある。

医療

グローバル化された世界で伝染性疾患が発生すると、飛行機や船による輸出入を通して短期間で疾患が蔓延する可能性がある[137]。新興感染症の発生は、経済にも悪影響を与える。2000年代初期のSARSの感染拡大や2014年の西アフリカエボラ出血熱流行もその一例である[138]

アフリカのHIV患者は1987年時点で250万人を超えて深刻な問題になっていたが、欧米中心の医療産業では治療薬が高価なため、多くのアフリカ人が使えなかった。そこでインドやタイの製薬会社からジェネリック医薬品が輸出され、アフリカのHIV新規感染者数や死亡率は低下傾向にある。この輸出は、オリジナルの製薬会社の訴訟取り下げや、WTOによる強制特許実施英語版の承認で可能となった。強制特許実施とは事前承諾なしに特許技術を使用することで、TRIPS協定で認められている[139]

奴隷貿易

 
リオデジャネイロの奴隷貿易。エドゥアール・リウー画。

倫理的に問題とされる取り引きは自由貿易においても行われており、その一例が奴隷貿易である。ヨーロッパ各国が行った大西洋三角貿易は、アフリカ人を奴隷貿易でアメリカ大陸に送ってプランテーションで労働をさせ、その生産物や現地の必需品も貿易をして莫大な利益をあげた[注釈 35]。当初は特許会社が奴隷貿易をしていたため、民間の商人も自由貿易を主張して参入を求めた。イギリスでは王立アフリカ会社の独占下にあったが、名誉革命(1688年)の影響で貿易の自由化が進み、奴隷貿易も自由化された[注釈 36][142]。1200万人以上の成人男女(後期には若年層も含む)を連れ去った奴隷貿易の影響は、現在にも及んでいるとする説がある。ネイサン・ナン英語版の研究によれば、奴隷貿易が最も激しかった地域は、現在のアフリカでは最貧困地域になっている[143]。また、ナンとレナード・ワンチェコン英語版の研究によると、奴隷貿易の被害にあった地域では家族・隣人・民族・政府への信頼感が低いという[144]

産業の違いによって、国内で自由貿易と保護貿易の支持者が対立することもあった。イギリス植民地の西インド諸島のプランテーション経営者は自由貿易を主張し、本国の工業製品の業者は保護貿易を主張した[145]。同様の対立はアメリカでも見られ、保護貿易を支持する北部と、自由貿易を支持する南部の対立によって南北戦争が起きた。北部は工業が主体だったが、南部ではプランテーションの綿花やタバコの輸出が主体であり、黒人奴隷の労働力に依存していた[注釈 37]

植民地主義

 
アヘン戦争(1840年)

自由貿易の輸出の拡大・海外権益の確保が、帝国主義の動きを強め国家の対立を激化させているとする説がある。例として、(1) 植民地時代に宗主国が不利な条件で植民地に取引を強要し、搾取した。 (2) 欧米は自国が輸出する製品に関しては貿易の自由化を進めた一方で、発展途上国の競合する製品に関しては保護政策をとり続けた、などがあげられる。19世紀のイギリスは自由貿易をめぐって他国から批判され、自由貿易を進めるのは経済力を背景とした利己的な政策である、イギリスはいち早く工業化を達成した地位を利用して他国を搾取している、などの意見があった[15]

自由貿易が強制された地域では、当時の制度がその後の社会に影響を及ぼす場合がある。イギリスによって植民地化されたイギリス領インド帝国は、自由貿易を強制されたため1920年代まで関税収入がなかった。そのため逆進性の高い地税や独占事業である塩税をかけて住民への負担となった[147]。イギリスがインドに地税制度を導入した際、ザミンダーリー制度が行われた地域は不平等レベルが高く、他の制度の地域と比べて現在でも公共財の普及が遅れており、識字率や政治への参加率が低く、農業技術の導入が遅れたため農業の生産性が低い[注釈 38][149]

環境

貿易では、有害な廃棄物や絶滅の恐れがある生物が取り引きされる可能性もある。WTOでは、有害廃棄物に関してはバーゼル条約、絶滅の恐れのある動植物に関してはワシントン条約によって貿易制限を認めている。貿易制限の他に、環境に悪影響が大きい財に課税する手段もある。貿易制限の場合は国内の非効率な活動を増やす可能性があり、課税の場合は国内外を対象とするために非効率性は生じない[注釈 39]。貿易と環境汚染に関する学説として、汚染逃避地仮説英語版や、環境クズネッツ曲線仮説英語版などがある[注釈 40][152]

リサイクル用の資源は、各国の国内で需要と供給が一致しないために貿易が行われている。需給不一致の原因は、 (1) ある製品のリサイクルは同じ製品に使われない場合がある、 (2) 再生資源が発生するタイミングと再生資源を利用したいタイミングが合わない、 (3) 製品が作られた地域と廃棄された地域が異なる、などがある。再生資源の貿易は、資源の有効利用として環境面からも便益があるされる[153]

社会的共通資本

社会的共通資本とは、自然環境、インフラストラクチャー、制度資本(教育、医療、司法)を指す。自由貿易の命題が社会的共通資本を全面的に否定した上で、現実には決して存在し得ない制度的、理論的諸条件を前提としているという指摘がある[154]

反対活動

 
WTO閣僚会議への抗議活動と警官隊(1999年11月30日)

1999年6月のケルン・サミットでIMFや世界銀行への大規模な抗議行動があり、同年11月にシアトルで開催された第3回WTO閣僚会議は抗議行動で開会式が中止となった。抗議行動は多角的貿易交渉に反対する環境団体、人権団体、消費者団体などが中心となり、人間の鎖で各国代表の入場を阻止した。抗議デモには労働組合も参加して、WTOが労働者の権利を守るように主張した。一部の抗議行動は暴動となり、非常事態宣言や夜間外出禁止令が出された[155]

出典・脚注

注釈

  1. ^ ジョン・メイナード・ケインズのように、自由貿易と保護貿易の支持を時代によって変えた経済学者もいる。1920年代は自由貿易論者として保守党の関税に反対し、大恐慌後には保護主義を主張したが、1945年にはアメリカの政策変更を知って再び自由貿易論者となった[2]
  2. ^ エリザベス1世は、当初はスペインとの摩擦を避けるために海賊や密貿易の監視もした[9]
  3. ^ アダム・スミスは『国富論』において重商主義や植民地貿易の独占、特権会社を批判した[14]
  4. ^ 第3回の国際通貨会議英語版(1881年)までに、オーストリア=ハンガリーとロシアをのぞく欧米主要国は金本位制を採用した。中国は清から中華民国にかけて銀本位制であり、日本は1897年に金本位制となる[18]
  5. ^ この保護主義は、フリードリヒ・リストが唱えた工業化のための保護主義ではなく、確立した独占的製造業の保護という面があった[20]
  6. ^ 金本位制で貿易収支が赤字になった国は、財政収支均衡のためにデフレ政策が必要となる。金保有量の不足が深刻となった場合は、金本位制の停止・平価の切り下げ・他国からの資金借り入れのいずれかが必要となる[21]
  7. ^ イギリスの輸入は特に一次産品が多かった。1860年にはアジア・アフリカ・ラテンアメリカの全輸出品の半数、1880年は甘蔗糖・茶・小麦の国際取引量の半数、1881年には全世界の食肉輸出の半数を輸入していた[22]
  8. ^ 1906年から1910年は、赤字は1億4200万ポンド、黒字は1億3700万ポンドだった[24]
  9. ^ ヨーロッパはヴェストファーレン条約(1648年)によって各国の領土権・法的主権・内政不可侵が定められ、勢力均衡がはかられていた。
  10. ^ インド・中国・日本の綿布、タイ・イギリス領ビルマフランス領インドシナの米、イギリス領マレーの天然ゴム、フィリピン群島政府英語版の砂糖、オランダ領インドネシアの天然ゴム、コーヒー、砂糖などがあった[30]
  11. ^ アメリカ国内から見ると、GDPに占める割合は輸出5パーセント、輸入3.4パーセントと低かったことも理由だった[35]
  12. ^ ローズヴェルトは政策変更のために、自由貿易を支持するコーデル・ハルを国務長官に任命した[37]
  13. ^ 共和党が高関税による保護貿易政策を主張して企業の支持を失ったことも影響し、民主党のローズヴェルトは1936年の大統領選で再選した[38]
  14. ^ ハリー・トルーマン政権は無差別な自由貿易の推進を意図したが、国内産業への影響を理由に議会から反対された[44]
  15. ^ 貿易依存度は、総貿易額と国内総生産(GDP)の比率で表す[47]
  16. ^ 構造調整の手段には、(1) 政策条件、(2) 政策対話、(3) マクロ部門経済調査がある[50]
  17. ^ ナイジェリアのように政策が変化した国もあり、イブラヒム・ババンギダ政権は構造調整プログラムを事実上受け入れたが自由化政策は進まず、のちのムハンマド・ブハリ政権で保護主義的な政策がとられた[53]
  18. ^ 日本の外貨収入のうち朝鮮特需の割合は1951年に26.4%、1952年は36.8%、1953年は38.2%で外貨不足を補った。1966年には輸出増加額のうち80%近くがベトナム周辺地域とアメリカ向けとなった[59]
  19. ^ 1950年代までの中国はソヴィエト連邦(ソ連)をはじめとする社会主義国から技術援助を受け、貿易も行っていた。しかし1960年代にソ連と対立し、国内だけで経済発展を目指す自力更生の政策となる。
  20. ^ 1991年までのインドは輸入関税が平均90%で最高300%と高く、輸出入には許可制をとっていた[70]
  21. ^ タイの伝統的な輸出品だった米は1990年には5%まで減少した[79]
  22. ^ 生産によって規模の経済を実現する[84]
  23. ^ 問題点としては、産業の特化の過大な重視、貿易が所得分配に与える影響の無視、各国の資源の違いの無視、規模の経済の貢献の無視、などがある[86]
  24. ^ 物理学者のスタニスワフ・ウラムが、「社会科学分野の中で、真理であり、かつ自明ではない命題を教えてほしい」とポール・サミュエルソンに聞いた。サミュエルソンは比較優位を例に出し、これが論理的に正しいことは数学者の前で言うまでもなく、これが自明ではないことは何千人もの優秀な人間に説明しても理解できなかったことから確かめられると答えた[88]
  25. ^ 過去50年間のアメリカを例にとった場合、失業と輸入額は負の相関を示す[89]
  26. ^ トパロヴァの研究は、ストルパー=サミュエルソンの定理とは反対の現象を示しており、論争を呼んだ[92]
  27. ^ マスキンの研究は特に輸出企業に当てはまる。メキシコの輸出企業の労働者は非輸出企業に比べて60%高い賃金、インドネシアでは外資系企業の社員は国産企業の社員より70%高い賃金を得ている[95]
  28. ^ 交易条件とは、輸出品の価格を輸入品で割った値を指す。この数値の上昇は輸出量に対して輸入量が増えることを表しており、交易条件の改善と呼び、その国の経済厚生が増えることになる[106]
  29. ^ 消費者は域外の安くて関税が高い輸入品ではなく、域内の高価な品を買わなければならない可能性がある[107]
  30. ^ 世界経済の政治的トリレンマのもとになった理論として国際金融のトリレンマがある。
  31. ^ 大恐慌やブロック経済の時期にあたる。
  32. ^ マルサスはイギリスに穀物自給力があると主張したが、根拠はなかった。また、ヨーロッパ全体の利益という視点では穀物を含むあらゆる商品の自由貿易が望ましいが、実現しないとも書いている[125]
  33. ^ 穀物法を批判したのはデイヴィッド・リカードの他に、リチャード・コブデン、政治家のジョン・ブライトらのマンチェスター学派の学者もいた[128]
  34. ^ ロナルド・レーガン政権はこの支援制度を削減し、民主党政権でも引き継がれた[131]
  35. ^ プランテーションではサトウキビ綿花タバコなどを栽培した。バルバドスの富はサトウキビ栽培前と比べて17倍となり、1650年からの20ヶ月で現在の1500万ポンド相当の生産があった[140]
  36. ^ 18世紀初頭のイギリスの自由貿易業者は、もぐり業者(インターローバー)と呼ばれていた[141]
  37. ^ 黒人は南北戦争では共和党を支持したが、のちの大恐慌で民主党のローズヴェルト政権が黒人の権利向上、連邦政府の黒人雇用、農業保障局の南部黒人への恩恵などを行ったために民主党支持へと変わっていく[146]
  38. ^ イギリスが導入した地税制度は3種類あり、地主ベースのザミーンダーリー制、小作農ベースのライーヤトワーリー制、村ベースのマハルワーリー制だった[148]
  39. ^ 非効率な活動としては、厳しい貿易制限による不法投棄や、廃棄物を中古品として輸出することで規制を逃れる方法などがある[150]
  40. ^ 汚染逃避地仮説は、環境規制の緩い国に貿易や直接投資で汚染が集中する可能性を示す。環境クズネッツ曲線仮説は、貿易の自由化と経済発展が環境を改善する可能性を示す[151]

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参考文献

日本語文献(五十音順)

単行本

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  • 阿部顕三; 遠藤正寛『国際経済学』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年。 
  • 伊藤元重『はじめての経済学〈上〉』日本経済新聞出版社〈日経文庫〉、2004年。 
  • 井村喜代子『現代日本経済論〔新版〕』有斐閣、2000年。 
  • 岩田規久男『経済学的思考のすすめ』筑摩書房〈筑摩選書〉、2011年。 
  • 岩本武和『ケインズと世界経済』岩波書店、1999年。 
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  • 宇佐見耕一; 小池洋一; 坂口安紀; 清水達也; 西島章次; 浜口伸明『図説ラテンアメリカ経済』日本評論社、2009年。 
  • 宇沢弘文『宇沢弘文の経済学 - 社会的共通資本の論理』日経BP、2015年。 
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  • 糟谷憲一 著「朝鮮の開国と開化」、李成市, 宮嶋博史, 糟谷憲一 編『朝鮮史2 近代・現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、2017年。 
  • 川北稔『砂糖の世界史』岩波書店〈ジュニア新書〉、1996年。 
  • 桐山昇; 栗原浩英; 根本敬『東南アジアの歴史 - 人・物・文化の交流史 新版』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2019年。 
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  • 小島道一『リサイクルと世界経済 - 貿易と環境保護は両立できるか』中央公論新社〈中公新書〉、2018年。 
  • 小浜裕久; 深作喜一郎; 藤田夏『アジアに学ぶ国際経済学』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2001年。 
  • 薩摩真介『〈海賊〉の大英帝国 - 掠奪と交易の四百年史』講談社〈講談社選書メチエ〉、2018年。 
  • 塩沢由典『リカード貿易問題の最終解決 - 国際価値論の復権』岩波書店、2014年。 
  • 島田周平『物語 ナイジェリアの歴史 - 「アフリカの巨人」の実像』中央公論新社〈中公新書〉、2019年。 
  • アダム・スミス 著、山岡洋一 訳『国富論(下) 国の豊かさの本質と原因についての研究』日本経済新聞出版、2007年。 (原書 Smith, Adam (1776), An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 
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  • 野林健; 大芝亮; 納家政嗣; 山田敦; 長尾悟『国際政治経済学・入門』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2003年。 
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  • アビジット・V・バナジー; ラクシュミー・アイヤー 著、小坂恵理 訳「イギリスのインド統治はなにを残したか」、ジャレド・ダイアモンド, ジェイムズ・A・ロビンソン 編『歴史は実験できるのか - 自然実験が解き明かす人類史』慶應義塾大学出版会、2018年。 (原書 Jared Diamond; James Robinson, eds. (2010), Natural Experiments of History, Harvard University Press 
  • アビジット・V・バナジー; エステル・デュフロ 著、村井章子 訳『絶望を希望に変える経済学 - 社会の重大問題をどう解決するか(Kindle版)』日経BP、2020年。 (原書 Abhijit Vinayak Banerjee; Esther Duflo (2019), Good Economics for Hard Times, PublicAffairs 
  • 平野克己『経済大陸アフリカ - 資源、食糧問題から開発政策まで』中央公論新社〈中公新書〉、2013年。 
  • エリック・ホブズボーム 著、柳父圀近, 長野聰, 荒関めぐみ, 松尾太郎, 山崎清 訳『資本の時代 1848-1875 (新装版)英語版 (1・2)』みすず書房、2018年。 (原書 Hobsbawm, Eric (1975), The Age of Capital, 1848-1875, Weidenfeld & Nicolson 
  • エリック・ホブズボーム 著、野口建彦, 野口照子 訳『帝国の時代 1875-1914英語版(1)』みすず書房、1993年。 (原書 Hobsbawm, Eric (1987), The Age of Empire, 1875-1914, Weidenfeld & Nicolson 
  • イシュトファン・ホント 著、田中秀夫 訳『貿易の嫉妬 - 国際競争と国民国家の歴史的展望』昭和堂、2012年。 (原書 Hont, István (2005), Jealousy of trade: international competition and the nation-state in historical perspective, Belknap Press of Harvard University Press 
  • ラース・マグヌソンスウェーデン語版 著、玉木俊明 訳『産業革命と政府 - 国家の見える手』知泉書館、2012年。 (原書 Magnusson, Lars (2009), Nation, state and the industrial revolution 
  • 丸川知雄『現代中国経済』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2013年。 
  • 宮本正興; 松田素二 編『改訂新版 新書アフリカ史(Kindle版)』講談社〈講談社現代新書〉、2018年。 
  • ダニ・ロドリック 著、岩本正明 訳『貿易戦争の政治経済学 - 資本主義を再構築する(Kindle版)』白水社、2019年。 (原書 Rodrik, Dani (2017), Straight Talk on Trade: Ideas for a Sane Economy, Princeton University Press 
  • 脇村孝平 著「植民地インドの経済 - 一八五八年~第一次世界大戦」、長崎暢子 編『南アジア史4 近代・現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、2019年。 
  • 若田部昌澄; 栗原裕一郎『本当の経済の話をしよう』筑摩書房〈ちくま新書〉、2012年。 

論文・記事

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  • 小山久美子1934年互恵通商協定法成立 -連続性の視点から」『経営と経済』第81巻第1号、長崎大学経済学会、2001年6月、65-89頁、doi:10.15027/17938ISSN 028691012020年7月22日閲覧 
  • 野口建彦19世紀国際通貨会議の歴史的意義」『日本大学経済学部経済科学研究所紀要』第36号、日本大学経済学部経済科学研究所、2006年、59-111頁、2020年7月22日閲覧 
  • 久末亮一華僑送金の広域間接続関係 -シンガポール・香港・珠江デルタを例に-」『東南アジア研究』第44巻第2号、京都大学東南アジア地域研究研究所、2006年、doi:10.20495/tak.44.2_2042019年7月2日閲覧 
  • 水上千之海洋自由の形成(一)」『廣島法學』第28巻第1号、広島大学法学会 国立情報学研究所、2004年6月、1-22頁、doi:10.15027/17938ISSN 0386-50102020年7月22日閲覧 

外国語文献(アルファベット順)

単行本

  • Rodrik, Dani (2011), The Globalization Paradox: Why Global Markets, States, and Democracy Can't Coexist(Kindle版), OUP Oxford 

論文・記事

関連文献

単行本

関連項目

外部リンク