フェニックス (軽巡洋艦)

これはこのページの過去の版です。Bcxfu75k (会話 | 投稿記録) による 2020年11月21日 (土) 06:02個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Help‐ノート:脚注/過去ログ2#脚注の文字サイズ統一)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

フェニックス (USS Phoenix, CL-46) は、アメリカ海軍ブルックリン級軽巡洋艦5番艦[1]。艦名はアリゾナ州フェニックスに因む。

フェニックス
基本情報
建造所 ニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
級名 ブルックリン級軽巡洋艦
建造費 11,975,000ドル(契約時)
艦歴
発注 1929年2月13日
起工 1935年4月15日
進水 1938年3月13日
就役 1938年10月3日
退役 1946年7月3日
除籍 1951年1月27日
除籍後 1951年4月9日、アルゼンチンに売却
要目
排水量 10,000 トン
全長 606 ft (185 m)
最大幅 62.0 ft (18.9 m)
吃水 19.3 ft (5.9 m)
主缶 水管罐×8基
主機 蒸気タービン×4基
出力 100,000 hp (75,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸推進
最大速力 33.6ノット (62.2 km/h)
乗員 士官、兵員868名
兵装
搭載機 SOC シーガル×4機
その他 船尾カタパルト×2基
テンプレートを表示

概要

フェニックス (USS Phoenix, CL-46) は1938年10月に竣工した。太平洋戦争開戦時は真珠湾にいたが、真珠湾攻撃での被害はなかった[2][3]。 1942年(昭和17年)初頭より東南アジア方面やインド洋に進出し、船団護衛任務に従事した。

1943年(昭和18年)になると第7艦隊に編入され、上陸部隊護衛や対地砲撃に従事する[1]。1944年(昭和19年)6月中旬、ビアク島攻防戦にともなう渾作戦で日本軍駆逐艦5隻[注釈 1]夜戦を繰り広げた[5]。 10月下旬以降のフィリピン攻防戦では、第77任務部隊としてレイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦に参加し[6]、西村艦隊を迎撃した[7][注釈 2]。その後、幾度か神風特別攻撃隊と交戦した。

太平洋戦争終結後の1951年(昭和26年)4月にアルゼンチンに売却され、最終的にヘネラル・ベルグラノ (ARA General Belgrano, C-4) と改名された[9]。長らくアルゼンチン海軍で運用されていたが、1982年(昭和57年)5月2日、フォークランド紛争で原子力潜水艦コンカラー (HMS Conqueror, S48) の魚雷攻撃を受けて沈没した[10]

艦歴

第二次世界大戦以前

フェニックスはニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所で1935年4月15日に起工する[11]。1938年(昭和13年)3月13日にドロテア・キース・ムーナン夫人の手によって進水した。同年10月3日にフィラデルフィア海軍造船所ジョン・W・ランキン英語版大佐の指揮下で就役した。就役後、フェニックスは慣熟航海でトリニダード・トバゴポートオブスペインまで航海。その後、サントスブエノスアイレスモンテビデオおよびサンフアンを親善訪問。フィラデルフィアには1939年(昭和14年)1月に戻った。その後、フェニックスは太平洋方面に移動した。

第二次世界大戦

真珠湾攻撃 - 1942年前半

 
真珠湾攻撃で破壊された戦艦アリゾナおよびウェストバージニアの横を通過するフェニックス

1941年12月7日(日本時間12月8日)、フェニックスは真珠湾フォード島の北東側に、病院船ソレース英語版 (USS Solace, AH-5) の近くに停泊していた[2]。フェニックスの見張りは、フォード島上空を飛ぶ不審な飛行機、日本機を発見する。間もなく日本機の攻撃が始まり、フェニックスは作動できる銃砲でこれに反撃した。日本側は第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)空母蒼龍九九式艦上爆撃機がフェニックス(目標「リ」)を攻撃し[12]、250kg爆弾2発が命中して中破したと判定している[13]。だがフェニックスは健在であった[14]

その日の午後には、同じく真珠湾内にいた軽巡洋艦セントルイス (USS St. Louis, CL-49) とデトロイト (USS Detroit, CL-8) [3]および数隻の駆逐艦、たまたまハワイ近海で訓練中だった重巡洋艦ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) と共に臨時の任務部隊を編成し、第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将が率いる南雲機動部隊の索敵に出撃した[15]。するとハルゼー提督の空母エンタープライズ偵察機(SBDドーントレス)がオアフ島南西で「敵艦隊」を発見し、ただちに攻撃隊が発進した[16]。フェニックス以下の任務部隊を日本艦隊と誤認したのである[15]。フォード島にむかったエンタープライズのF4Fワイルドキャット 6機のうち、4機は味方の対空砲火で撃墜された[16]

真珠湾攻撃の後、フェニックスは本国行きの輸送船団を護衛し、別の輸送船団を護衛して真珠湾に戻ってくる任務を約1ヵ月行った。任務終了後、フェニックスはサンフランシスコからメルボルン行きの輸送船団を護衛する。航海の途中、船団の行き先は日本軍が進撃してくることが想定されたジャワ島方面に変更となった。

1942年(昭和19年)2月中旬、フェニックスはジャワ島にカーチス P-40 戦闘機を緊急輸送する水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) とイギリス輸送船シーウィッチ英語版 (HMS Seawitch) を含むMS-5船団の護衛を行った[17]。船団自体はオーストラリアフリーマントル2月22日に出港し、セイロン島に向かっていた[18]。フェニックスは2月28日にイギリス軽巡洋艦エンタープライズ英語版 (HMS Enterprise, D52) と船団護衛の任務を交代して、ラングレーとシーウィッチの護衛にあたる予定となっていた[19]。ところが、日本軍のジャワ島上陸が時間の問題となってきたので、ラングレーとシーウィッチは即座に船団から分離して全速力でジャワ島へ向かうよう命令され、船団を離脱した[18]2月27日、ラングレーは駆逐艦ホイップル英語版USS Whipple,DD- 217/AG-117)およびエドサルUSS Edsall, DD-219)と共にジャワ島にむけ航行中、チラチャップ英語版インドネシア語版沖合で日本海軍の一式陸上攻撃機の爆撃を受けて損傷し、ホイップルに雷撃処分された[20]。シーウィッチは低速ゆえラングレーから引き離されており、攻撃を免れた[21]。攻撃を受けなかったフェニックスはしばらくの間、日本軍の脅威に備えてインド洋で哨戒し、ムンバイ行きの輸送船団の護衛に従事した(セイロン沖海戦)。

1942年後半 - 1944年

艦長がジョゼフ・R・レッドマン大佐に代わったフェニックスは、1942年の後半を第44任務部隊英語版の一艦として過ごした。フェニックスは駆逐艦ヘルム英語版 (USS Helm, DD-388) 、マグフォード英語版 (USS Mugford, DD-389) およびパターソン英語版 (USS Patterson, DD-392) とともにリリプット作戦英語版 に参加し、豪州海軍の軽巡洋艦ホバート (HMAS Hobart) および付属の駆逐艦と交替でニューギニア島南方海域での船団護衛を行った。作戦終了後、フェニックスはブリスベンを経て1943年7月にフィラデルフィア海軍造船所に到着し、オーバーホールに入った。オーバーホール後、フェニックスはコーデル・ハル国務長官カサブランカまで乗せた。つづいてダグラス・マッカーサー大将の指揮下で行動する第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)[22]に配備された。連合軍は、とりあえずニューブリテン島ラバウルを攻略するか孤立させる方向で進撃した[23]

12月26日、フェニックスは姉妹艦ナッシュビル (USS Nashville, CL-43) とともにニューブリテン島西端のグロスター岬にある日本軍施設を4時間にわたって攻撃した。このあと連合軍がグロスター岬上陸に上陸した[24]グロスター岬の戦い[25]ダンピア海峡を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はパプアニューギニア経由でフィリピンを目指した[26][27]。 1944年1月25日から26日の夜にはパプアニューギニアのマダンとアレクシスハーフェンの日本軍に対して夜間攻撃を行った。続いてフェニックスは、2月29日からのアドミラルティ諸島の戦いに参加し[28]ロスネグロス島に上陸して威力偵察を行う第1騎兵師団を支援を行ったが、第1騎兵師団は島で抵抗に遭わなかったのでそのまま占領した。一連の戦いの最中、フェニックスはキンケイド提督の旗艦であった[29]。南西太平洋方面総司令官マッカーサー大将は「作戦がきわどい性質のもので、情勢により即座に決断を下す必要」を感じたので、フェニックスに乗艦して戦いを観戦していた[29]

ラバウルを孤立させた連合軍は、パプアニューギニアの北海岸を西進した[30]。3月4日と3月7日、フェニックスはナッシュビルおよび豪州海軍の重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) とともにアドミラルティ諸島内のハウエイ島に対して艦砲射撃を行った。この島にある日本軍の大砲は、マヌス島に対する大きな脅威になると考えられていた。3隻が攻撃を始めた時には日本軍の反撃は激しかったものの、3隻からの砲弾が次第に命中するに及んで反撃は沈黙していった。

連合軍はニューギニア島北岸での作戦を続行した[31]。4月22日からのホーランジアの戦い[32]、アメリカ軍は大部隊で上陸作戦を敢行した[33]。フェニックスはフルボント湾英語版に入って砲撃を行い、上陸部隊の進撃を容易にした。ホランジアにいた第九艦隊は壊滅した[34]。4月29日から30日の夜にかけてはパプア州ワクデ島とサワールのにある日本軍の飛行場と不時着場に対して艦砲射撃を行い、この方面での航空反撃の可能性を削り取った。5月17日、連合軍はワクデ地区に上陸し[35]、2日後にワクデ守備隊は玉砕した[36][37]

ビアク島

引き続き、ビアク島チェンデラワシ湾への攻勢が始まった[38]。マッカーサー大将はこの方面に重爆撃機の基地を建設することを計画していた[39]。日本軍もビアク島に飛行場を建設していたが、滑走路1本が使用可能になった程度だった[40]5月25日、フェニックスはナッシュビルおよび軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47) と共にフルボント湾を出撃、27日から始まったビアク島上陸を支援した[41]。ビアク島には日本海軍の第28根拠地隊(司令官千田貞敏少将)と、日本陸軍の歩兵第222連隊(連隊長葛目直幸少将)が配備されていた[42][43]。日本軍の抵抗は熾烈で[44]、火力支援部隊が沿岸部の日本軍陣地を砲撃した際に、2隻の駆逐艦が反撃を受けて損傷した。フェニックスは5インチ砲を以って陣地を破壊した。

この方面の日本海軍水上部隊を指揮していたのは、南西方面艦隊隷下の南西方面警戒部隊指揮官 (NSGB) 第十六戦隊司令官左近允尚正少将であった[45]。南西方面艦隊や第四南遣艦隊[46]、さらに連合艦隊の意見具申により[47]大本営南方軍海上機動第二旅団を海軍艦艇で輸送することに決定した[48]。これが渾作戦である[49][50]。本作戦に第二方面軍司令官阿南惟幾陸軍大将も大きな期待を寄せていた。

日本軍が増援部隊の派遣を検討する中、ビアク島では激戦が続いていた[51]。日本陸海軍航空部隊は、ニューギニア島西パプア州ソロンバボを拠点に、ビアク島方面の連合軍に空襲を敢行した[52]6月4日、フェニックスは他の艦艇と共にニューギニア北西岸を航行中、日本軍攻撃隊(零戦19、一式戦闘機 12、彗星 6)に攻撃された[53]。日本側はホノルル型軽巡2隻、オマハ型軽巡2隻、駆逐艦8隻(実際は乙型巡洋艦4、駆逐艦14)を攻撃し、ホノルル型1撃沈おおむね確実、オマハ型1隻に至近弾、グラマン2撃墜、零戦1未帰還(さらに着陸時3機大破)・彗星1未帰還を報じた[53]。フェニックスには2機が攻撃を行い、対空砲火を打ち上げたものの撃墜することは出来なかったが、照準を狂わせることが出来た。2機が投じた爆弾は至近弾となり、1発は1名を戦死させて4名を破片で負傷させた。別の1発はフェニックスの船体とスクリューに損害を与えた。ほかに姉妹艦ナッシュビルが至近弾で損傷した[53]。 翌6月5日の夜にもビアク島近海で一式陸上攻撃機3機(爆装1、雷装3)の航空攻撃を受けたが[53]、対空砲火を打ち上げて追い払った。陸攻隊は戦果を過大報告したが、1機が被弾小破したのみで全機帰投した[53]

フェニックスが僚艦と共にニューギニア北西岸を航行している頃、日本海軍の艦艇多数[注釈 3]を投入した第一次渾作戦が実施されていた[55]。第一次渾作戦部隊は6月2日夕刻にミンダナオ島ダバオを出発し、ビアク島にむかった[56]。 だが翌3日B-24 2機に触接された上に「敵有力部隊ニューギニヤ北西部行動中」という理由で中止された[57][58]。扶桑と第五戦隊はダバオに引返し[59]、輸送部隊はラジャ・アンパット諸島ワイゲオ島を経由して6月4日夜、ソロンに入泊した[60][61]。日本陸軍偵察機が「空母2隻、戦艦3隻、駆逐艦約10隻」を報じて、これを「敵有力部隊」と判断した結果だったが[62]、実際はフェニックスを含む巡洋艦部隊であった[63]

6月8日から6月9日の夜にかけて、フェニックスはヴィクター・クラッチレー英語版少将オーストラリア海軍)率いる第74任務部隊の一艦として、ビアク島に逆上陸を試みる日本軍の動きを警戒していた。そんな最中、第二次渾作戦でビアク島に向けて進撃中の、左近允尚正少将(旗艦「敷波」)率いる駆逐艦5隻(輸送隊〈敷波浦波時雨〉、警戒隊〈白露五月雨〉)が任務部隊に迫りつつあった[5]。左近允少将は重巡青葉や軽巡鬼怒ハルマヘラ島バチャン泊地に退避させ[64]、駆逐艦6隻のみで8日早朝にソロンを出撃、ビアク島を目指していた[65]。だが、昼間にP-38B-25反跳爆撃で駆逐艦白露が小破、駆逐艦春雨が沈没し[66][67]、第27駆逐隊司令白浜政七大佐が戦死した[4]。それでもビアク島揚陸の決意を変えず、進撃を続けていたのである[68]

第74任務部隊(重巡オーストラリア、軽巡フェニックス、軽巡ボイシ、駆逐艦14隻)は夜戦で日本軍輸送部隊(駆逐艦5隻)を迎え撃った[69]。しかしアメリカ艦隊(日本側は戦艦1、巡洋艦4、駆逐艦8と認識)[68]を発見した輸送部隊(駆逐艦5隻)は、魚雷を発射しつつ高速で退却する[69]。圧倒的優勢の第74任務部隊はレーダーで砲撃をおこないつつ追撃したが[70]、逃げ切られた[71]。西野(時雨駆逐艦長)は、輸送部隊の最後尾にいた時雨に敵艦隊が距離約5,000mまで迫っていたと回想している[72]。時雨は後部砲塔で反撃し[73]、敵巡洋艦に命中弾5斉射を認めたが、敵弾2発が命中して戦死7名、重軽傷15名を出している[74]

時雨などを取り逃がしたフェニックスと僚艦は、ゼーアドラー湾に帰投した。日本海軍は大和型戦艦の投入を決断し、第三次渾作戦を開始した[75]ハルマヘラ島バチャン泊地に重量艦(大和武蔵妙高羽黒青葉)を含む渾作戦部隊が集結した[76]。だがサイパン島情勢が急変[77]、6月13日をもって第三次渾作戦は中止された[78][79]。さらにマリアナ沖海戦が連合軍の勝利で終わると、マッカーサー部隊に対する日本軍の圧力は消滅した[80]

一息ついたフェニックス達は整備をおこなった後、7月2日にヌムフォア島英語版を艦砲射撃し、上陸を支援した[81]。砲撃の後、フェニックスのいる海域には日本兵の死体や飛行機の残骸が漂流していた。続く9月15日からのモロタイ島の戦いでは[82][83]、フェニックスはボイシ、ナッシュビル、シュロップシャーおよび重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) と共に、モロタイ島上陸部隊の援護のためハルマヘラ島を砲撃した。

フィリピン

10月17日のレイテ湾スルアン島上陸、つづいて20日レイテ島上陸から、アメリカ軍のフィリピン奪還戦が始まった[84][85]。フェニックスは、第77任務部隊(指揮官、第七艦隊司令長官キンケイド中将)に所属し[86][87]、巡洋艦4隻(フェニックス、ボイシ、シュロップシャー、オーストラリア)と駆逐艦部隊で第77任務部隊第3群を編成しており、ラッセル・S・バーキー英語版少将の旗艦であった[6]。第77任務部隊にはこのほかに、ジェシー・B・オルデンドルフ少将の戦艦部隊(第77任務部隊第3群)[88]トーマス・L・スプレイグ少将の護衛空母部隊(第77任務部隊第4群)[89]がいた。マッカーサー大将はナッシュビルを旗艦としていた[90]。フェニックスは戦いの初日、上陸前の砲撃を大いに行って日本軍の防御拠点を破壊し、上陸した第19連隊英語版の進撃を容易にした。第77.3任務部隊では作戦中にオーストラリアが空襲で損傷し、前線を離脱した[91]

10月24日昼間、ハルゼー提督が指揮する任務部隊のうち、空母エンタープライズと空母フランクリンUSS Franklin, CV-13)の攻撃隊はスールー海を東進中の第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊もしくは西村部隊)を攻撃し、戦艦扶桑と駆逐艦時雨に若干の損害を与えた[92][93]。キンケイド提督は、西村艦隊と後続の第二遊撃部隊(通称「志摩艦隊」)がスリガオ海峡に向かいつつあると判断した[92]。第38任務部隊の空母群は第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に集中攻撃を加えており、第77任務部隊は独力で西村艦隊と志摩艦隊の進撃を阻止せねばならなかった[92]

10月24日深夜から25日夜明けにかけて、第77任務部隊はレイテ沖海戦の戦いの一つであるスリガオ海峡夜戦を戦った[7]。第77任務部隊の戦艦部隊と巡洋艦部隊はスリガオ海峡の警戒に従事し[94]丁字戦法で西村艦隊を迎撃する[95]。連合軍駆逐艦部隊の雷撃で4隻(扶桑、満潮山雲朝雲)が沈むか戦闘不能になったので[96]、スリガオ海峡を北上してきたのは戦艦山城(第二戦隊司令官西村祥治中将旗艦)、重巡最上、駆逐艦時雨にすぎなかった。第77任務部隊は丁字戦法で日本艦隊の残存部隊に集中砲火を浴びせた[97]。フェニックスは6インチ砲を発射し、そのうちの4発が命中したと判断された。相手は山城だと推定された。この砲雷戦で山城が沈没し、西村提督は戦死した[94]。連合軍の駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) が味方巡洋艦の15㎝砲弾多数を被弾して大破(同士討ち[98]、最上と時雨は損傷しつつも反転して退却した[注釈 4]。 第77任務部隊の巡洋艦や駆逐艦は、艦首を失っていた駆逐艦朝雲を袋叩きにして沈めた[100]

時雨に逃げられたフェニックスは、引き続きレイテ湾の哨戒を行った。11月1日朝、10機の雷撃機が侵入してフェニックスとその周辺の艦船を攻撃した。9時45分、フェニックスは対空砲火を打ち上げたが、その5分後に駆逐艦クラクストン英語版 (USS Claxton, DD-571) は神風の突入を受けた。フェニックスの5インチ砲は別の神風に向けられたが、駆逐艦アムメン英語版 (USS Ammen, DD-527) への突入を許してしまった。9時57分には、雷撃機がフェニックスに向けて魚雷を落下させんとしたが、フェニックスはこれを回避で雷撃機を撃墜した。しかし、雷撃機に気を取られている間に、駆逐艦キレン英語版 (USS Killen, DD-593) に神風が突入して損害を与えた。2時間半後、午前中以上の神風の大群が押し寄せ、13時40分に駆逐艦アブナー・リード (USS Abner Read, DD-526) に1機が突入してアブナー・リードは炎上し沈没。他の神風は別の駆逐艦に向かっていったが、フェニックスの対空砲火はこれを撃墜した。

フェニックスは12月5日と10日にも神風攻撃を受けたが、5日の攻撃は2機を撃墜して事なきを得、10日の攻撃は40ミリ機関砲で撃墜し、フェニックスから100メートル離れた海中に墜落していった。12月13日、ミンドロ島の戦いのため上陸部隊を護衛してミンダナオ海を航行中だったナッシュビルは神風攻撃で大損害を受けた。2日後の12月15日、フェニックスはミンドロ島上陸部隊への火力支援の傍ら、5インチ砲で日本機を追い払っていた(ミンドロ島の戦い、礼号作戦[101]。ミンドロ島の確保と飛行場建設は、南シナ海の日本船の航路を脅かし、ルソン島の戦いを支援する下地を与えた[102][103]

1945年(昭和20年)初頭、ルソン島リンガエン湾に向かう上陸部隊[104]の護衛を行っていたフェニックスは、シキホル島近海で潜航中の潜水艦(特殊潜航艇)の司令塔を発見した。マッカーサー元帥は姉妹艦ボイシに乗艦していた[105]。マッカーサーによれば、雷撃を回避したあと護衛の駆逐艦が爆雷を投下し、浮上してきた日本軍の豆潜水艦数隻を駆逐艦が体当たりして沈めたという[106]。フェニックスは魚雷2本を回避し、逆に潜水艦に体当たりしてこれを始末したと主張している。日本側の記録によれば、特殊潜航艇甲標的を運用していたのはセブ島の第三十三特別根拠地隊(司令官原田覚少将)であった[107]。甲標的部隊側は、1月3日の出撃で駆逐艦1隻撃沈と衝突事故で輸送船2隻沈没、1月5日の出撃で駆逐艦と艦種不明各1隻撃沈、巡洋艦1隻撃沈と記録している[107]

2月13日から28日にかけては[108][109]、マッカーサー元帥の「故地」コレヒドール島バターン半島の奪還を支援する。ルソン島を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はフィリピンからインドネシア方面の掃討作戦をおこなう[110]。一息入れた後、6月29日から7月7日まではボルネオの戦いの一つであるバリクパパンの戦い英語版[111]に先駆けて機雷除去作戦を支援した。この方面の日本軍の抵抗は大きく[112]、機雷と防御砲火により11隻の掃海艇を撃沈または損傷させた。フェニックスは火力支援で防御砲火を沈黙させ、部隊を上陸させた。

フェニックスはオーバーホールのため真珠湾に向かっている途中に終戦を迎えた。9月6日にパナマ運河を通過し、大西洋艦隊に配属された。

退役とアルゼンチンへの売却

1946年(昭和21年)2月28日、フェニックスはフィラデルフィアで退役し、保管艦状態となった。1951年4月9日、ニューギニアおよびフィリピンで共に戦った姉妹艦ボイシ (USS Boise, CL-47) と共に、アルゼンチンに売却される。当初、フェニックスはフアン・ペロン大統領により「ディエシシエテ・デ・オクトゥブレ」 (ARA Diecisiete de Octubre) と命名された[1]。つづいてペロンの失脚後に「ヘネラル・ベルグラノ 」(ARA General Belgrano, C-4) と改名され、アルゼンチン海軍で運用された[1]フォークランド紛争Guerra_de_las_Malvinas)に参戦中の1982年(昭和57年)5月2日、イギリス海軍チャーチル級原子力潜水艦 (Churchill class submarines) コンカラー (HMS Conqueror, S48) の魚雷攻撃を受け、左舷艦首と艦尾部分に魚雷が命中する[10]。魚雷命中から間もなく左舷に傾斜し、沈没した[113]

脚注

注釈

  1. ^ * 敷波(第十六戦隊司令官左近允尚正少将) 春雨」は昼間の空襲で沈没していた[4]
  2. ^ 遊撃部隊第三部隊(1YB3H)のこと。
  3. ^ 間接護衛隊(扶桑風雲朝雲)、第五戦隊(妙高羽黒)、第十六戦隊(青葉鬼怒)など[54]
  4. ^ 最上は第77任務部隊の砲撃で大破したあと、第二遊撃部隊志摩清英中将)の重巡那智と衝突したが、スリガオ海峡からの退避に成功した[99]。だが日中になり空母艦載機の雷撃で航行不能となり、志摩艦隊の駆逐艦が雷撃処分した[99]

出典

  1. ^ a b c d 撃沈戦記 1988, p. 437.
  2. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 003a空襲時真珠湾艦船碇泊位置(真珠湾攻撃記録)
  3. ^ a b 戦史叢書10 1967, pp. 374–375開戦時の海上兵力配備
  4. ^ a b 戦史叢書54 1972, pp. 409–411第二次渾作戦の中止
  5. ^ a b 戦史叢書12 1968, pp. 504–507第二次渾作戦/作戦経過
  6. ^ a b Leyte 1971, p. 202a○第七十七任務部隊第三群(近接援護隊)
  7. ^ a b Leyte 1971, p. 100スリガオ海峡の戦闘/1944年10月24日夜~25日
  8. ^ Leyte 1971, p. 204兵力区分/●第一遊撃部隊
  9. ^ 撃沈戦記 1988, p. 438.
  10. ^ a b 撃沈戦記 1988, pp. 442–444二本のMk8魚雷
  11. ^ #フィニクス起工 p.2
  12. ^ 戦史叢書10 1967, p. 357.
  13. ^ 戦史叢書10 1967, p. 004a付図第四 機動部隊戦果判定図(第一航空艦隊戦闘詳報 図面第一号)
  14. ^ 戦史叢書10 1967, p. 359.
  15. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 392.
  16. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 393.
  17. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 20.
  18. ^ a b 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 21.
  19. ^ 永井、木俣, 118ページ
  20. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 25.
  21. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 26.
  22. ^ マッカーサー 2003, p. 144.
  23. ^ マッカーサー 2003, p. 153(1943年連合軍の攻勢)
  24. ^ マッカーサー 2003, p. 165.
  25. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 247–248ラバウルの孤立と連合軍の新攻勢
  26. ^ マッカーサー 2003, p. 179(1944年の連合軍攻勢計画)
  27. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 628a-629三 マッカーサーのニューギニア北岸西進計画
  28. ^ マッカーサー 2003, p. 185(1944年2月、連合軍のアドミラルティー諸島上陸作戦)
  29. ^ a b マッカーサー 2003, p. 186.
  30. ^ マッカーサー 2003, p. 187.
  31. ^ 戦史叢書54 1972, p. 374連合軍の跳躍
  32. ^ 戦史叢書54 1972, p. 385連合軍ホランジア、アイタペに上陸
  33. ^ マッカーサー 2003, p. 190.
  34. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 386–387海軍部隊の転進
  35. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 310.
  36. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 308–313ニューギニア方面の概況
  37. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 403–404七 連合軍、ワクデ方面に上陸
  38. ^ マッカーサー 2003, p. 1971944年4月以降の連合軍の西方進撃作戦
  39. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 312.
  40. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 311.
  41. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 478–481経過概要と聯合艦隊等の作戦指導
  42. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 475–476ビアク島所在部隊の状況
  43. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 387–389パラオ、サルミ、ビアク地区の防備強化
  44. ^ マッカーサー 2003, p. 198.
  45. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 481–484渾作戦発令の経緯
  46. ^ 戦史叢書12 1968, p. 483.
  47. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 313.
  48. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 405–406海上機動第二旅団のビアク派遣決定
  49. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 406–407渾作戦の発令
  50. ^ 淵田、奥宮 1992, pp. 321–329「渾作戦」― 敵機動部隊の誘出はかる
  51. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 484–485ビアク方面戦況概要
  52. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 485–490航空部隊の作戦
  53. ^ a b c d e 戦史叢書12 1968, p. 488.
  54. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 493a-495渾部隊の作戦計画とダバオ集結
  55. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 490–493経過概要と聯合艦隊司令部等の作戦指導
  56. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 408a-409第一次渾作戦の中止
  57. ^ 淵田、奥宮 1992, p. 326.
  58. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 496–498第一次渾作戦経過
  59. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 281.
  60. ^ 戦史叢書12 1968, p. 493b.
  61. ^ 駆逐艦戦隊 1994, pp. 230–233囮をかねたビアク島支援
  62. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 408b-409.
  63. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 497–498.
  64. ^ 戦史叢書12 1968, p. 505.
  65. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 501–504第二次渾作戦/作戦経過の概要と聯合艦隊司令部等の作戦指導
  66. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 375–376.
  67. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 283.
  68. ^ a b 淵田、奥宮 1992, p. 327.
  69. ^ a b 戦史叢書12 1968, p. 506.
  70. ^ 駆逐艦戦隊 1994, pp. 249–251敵のレーダー射撃に苦戦
  71. ^ 五月雨出撃す 2010, pp. 284–285.
  72. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 237–239レーダー射撃からの逃走
  73. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 239.
  74. ^ 戦史叢書12 1968, p. 507.
  75. ^ 戦史叢書12 1968, p. 508.
  76. ^ 淵田、奥宮 1992, pp. 328–329.
  77. ^ 淵田、奥宮 1992, pp. 337–339.
  78. ^ 戦史叢書12 1968, pp. 524–527米軍マリアナ来攻直前におけるわが軍の状況/経過概要
  79. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 411–413第三次渾作戦もついに中止
  80. ^ 戦史叢書12 1968, p. 630aワクデ及びサルミ並びにビアク上陸作戦
  81. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 433–434ヌンホル、サンサポールの失陥
  82. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 438–439連合軍のモロタイ上陸
  83. ^ マッカーサー 2003, p. 222.
  84. ^ マッカーサー 2003, p. 260(1944年10月、連合軍のレイテ上陸作戦)
  85. ^ 戦史叢書54 1972, p. 377連合軍レイテに上陸
  86. ^ Leyte 1971, p. 202b兵力区分●第七十七任務部隊(支援部隊)
  87. ^ Leyte 1971, pp. 37–40第七艦隊のキンケード中将
  88. ^ Leyte 1971, p. 202c○第七十七任務部隊第二群(火力支援、砲撃群)
  89. ^ Leyte 1971, pp. 202d-203○第七十七任務部隊第四群
  90. ^ マッカーサー 2003, p. 261.
  91. ^ Leyte 1971, p. 47.
  92. ^ a b c Leyte 1971, p. 65.
  93. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 243.
  94. ^ a b マッカーサー 2003, p. 278.
  95. ^ Leyte 1971, pp. 101–102手ぐすねひく米国艦隊
  96. ^ Leyte 1971, pp. 105–112米水雷戦隊の活躍
  97. ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 246–247.
  98. ^ Leyte 1971, p. 124.
  99. ^ a b Leyte 1971, pp. 116–117奮戦つづける最上
  100. ^ Leyte 1971, p. 117a最後まで砲撃した「朝雲」
  101. ^ 戦史叢書54 1972, p. 445米軍レイテ、ミンドロに上陸
  102. ^ マッカーサー 2003, p. 308.
  103. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 456–459ミンドロ島上陸と禮号作戦
  104. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 459–460連合軍、リンガエン湾に進出
  105. ^ マッカーサー 2003, p. 313.
  106. ^ マッカーサー 2003, p. 314.
  107. ^ a b 戦史叢書98 1979, pp. 283–284セブ基地特殊潜航艇の作戦
  108. ^ マッカーサー 2003, p. 335.
  109. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 528–532六 マニラ湾口の戦闘
  110. ^ マッカーサー 2003, p. 346(1945年前半、フィリピン掃討作戦)
  111. ^ 戦史叢書54 1972, p. 551ボルネオ、佛印方面の戦闘
  112. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 578–580バリクパパンの戦闘
  113. ^ 撃沈戦記 1988, p. 444.

参考文献

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 遠藤昭、原進『駆逐艦戦隊』朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ〉、1994年7月。ISBN 4-257-17283-5 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 木俣滋郎「第1節 アメリカ航空機運搬艦「ラングレー」」『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月(原著1983年)。ISBN 47698-2009-7 
  • (232-239頁)「空爆と盲点」<駆逐艦「時雨」艦長・西野繁中佐の証言>(渾作戦およびレイテ沖海戦時の時雨駆逐艦長)
  • (368-377頁)「判断の良否」<駆逐艦「朝風」艦長・池田徳太郎少佐の証言>(渾作戦時の五月雨駆逐艦長)
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月。ISBN 978-4-7698-2630-9 
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • 永井喜之、木俣滋郎「第4部 第二次大戦以降/3.アルゼンチン軽巡洋艦「ベルグラーノ」」『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8 
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
  • 淵田美津雄奥宮正武「第7章 戦機動く」『機動部隊』朝日ソノラマ〈新装版戦記文庫〉、1992年12月。ISBN 4-257-17269-X 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • ダグラス・マッカーサー著、津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2003年7月(原著1964年)。ISBN 978-4-12-205977-1 
  • ドナルド・マッキンタイヤー(著)、大前敏一(訳)「(5)西村艦隊なぐりこむ」『レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』産経新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス5〉、1971年3月。 
  • 町屋俊夫「原潜初の戦果 フォークランド紛争の「コンカラー」」『世界の艦船 第454号 特集 イギリスの潜水艦』海人社、1992年
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『4 列国海軍造艦術進歩の現状』。Ref.C05034593500。 
    • 『公文備考 昭和12年 D 外事 巻2(防衛省防衛研究所)第148号10.5.7米国巡洋艦フィーニクス起工に関し細目事項通知の件』。Ref.C05110671000。 

関連項目

外部リンク