「三国峠 (群馬県・新潟県)」の変更履歴

差分を表示するには比較したい版のラジオボタンを選択し、エンターキーを押すか、下部のボタンを押します。
凡例: (最新) = 最新版との比較、(前) = 直前の版との比較、m = 細部の編集、日時は個人設定で未設定ならUTC

(最新 | 最古) (以後の50件 | ) (20 | 50 | 100 | 250 | 500 件) を表示

2023年11月11日 (土)

2023年6月16日 (金)

2023年4月18日 (火)

2022年11月24日 (木)

2022年3月19日 (土)

2022年2月4日 (金)

2021年10月5日 (火)

2021年9月28日 (火)

2021年9月27日 (月)

2021年9月22日 (水)

2021年9月19日 (日)

2021年9月17日 (金)

  • 最新 05:242021年9月17日 (金) 05:24大源太太郎 会話 投稿記録 25,977バイト +11,917 →‎三国峠の戦い: 追記しました。数字や描写などはなるべくニュートラルなものを心がけました。現地の説明文でいきなり数字が複数あるので書き方に悩んだのですが、東軍がミニマムで130、マックスで300。これは非戦闘員を足してるのと途中で郷兵を返した記述があるので築陣に向けて出発した人数と戦闘に参加した人数の違いと思います。西軍は最大で1500と書いてる資料もあるのですが、直接戦闘に参加してるのは本文の藩兵に限られるので、上越国境に向かった部隊の総数と実際に戦闘に参加した部隊の違いと思います。130vs1500、300vs600では受ける印象がかなり異なるので更に資料の発掘に努めたいです。町野久吉のエピソードと官軍側の死傷者が一致しないので、雑誌の特性や後年の発言ということもあり18人を突き伏せた説は採用しませんでした。しかし生き胆を食べられた話は出典が古老の談ではありますが資料に記載があったので書きました。あとは撤退理由やタイミングですが、井深隊の使者から山道軍の進行度を聞いて撤退に転じた説や民兵の錬度が低く総崩れになったなど資料によってバラバラなのでこれも課題としたいです。 取り消し タグ: サイズの大幅な増減 ビジュアルエディター

2021年9月16日 (木)

2021年9月14日 (火)

2021年9月13日 (月)

2021年9月7日 (火)

2021年3月2日 (火)

2020年12月17日 (木)

2020年9月20日 (日)

2019年1月3日 (木)

2018年11月15日 (木)

2018年10月31日 (水)

2018年10月22日 (月)

2017年9月30日 (土)

2016年8月16日 (火)

2015年11月22日 (日)

2015年7月26日 (日)

2015年5月4日 (月)

2014年8月24日 (日)

2014年6月25日 (水)

2014年1月26日 (日)

2014年1月4日 (土)

2013年11月3日 (日)

2013年10月29日 (火)

2013年10月1日 (火)

2012年8月13日 (月)

2012年6月15日 (金)

2011年10月1日 (土)

2011年7月6日 (水)

2011年5月1日 (日)

(最新 | 最古) (以後の50件 | ) (20 | 50 | 100 | 250 | 500 件) を表示