ページの履歴
2021年1月4日 (月)
2020年12月20日 (日)
2020年10月18日 (日)
2020年9月30日 (水)
2020年9月27日 (日)
2020年9月19日 (土)
2020年7月13日 (月)
2019年7月25日 (木)
2019年5月1日 (水)
2019年3月21日 (木)
2018年10月15日 (月)
2018年5月27日 (日)
2018年3月7日 (水)
2018年2月21日 (水)
2017年12月24日 (日)
2017年11月10日 (金)
2017年3月3日 (金)
2016年10月24日 (月)
2015年7月3日 (金)
最初の検挙は一週間で釈放となったため。また検挙と釈放は繰り返されたため。
+253
同級のエピソードとして町村を挙げるより村山を挙げる方が文脈的にふさわしいと思われるため。法政大の講師としては三木清の後任だったことも西田一門を知る上で重要なじょうほうとか
+61
2014年4月2日 (水)
2014年1月17日 (金)
2013年11月11日 (月)
2013年10月18日 (金)
2013年3月13日 (水)
2012年10月20日 (土)
2012年7月13日 (金)
2012年5月30日 (水)
2012年4月23日 (月)
2010年6月2日 (水)
亡くなる1週間前に長野刑務所で面会した妻が、大変元気だったと伝えている。また、重症疥癬患者の毛布は非常に感染力が高いが人為的に服役囚に与えたという説もあるので。
−9
彼は著書「日本イデオロギー論」の中でマルクス主義を揶揄しており、「マルクス主義を研究した」ため「西田左派に属する」と論理づけるには無理がある。そのように整理されること
−76