「小幡信真」の版間の差分

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父は[[小幡憲重]](重貞、重定)。(ただし、[[小幡重貞|重貞]]と名乗ったのは信貞とも、[[小幡信真|信真]]や[[小幡信定|信定]]は信貞の子の名ともいわれ、はっきりしない)。尾張守、上総介を称す。[[上野国|上野]][[国峯城]]城主。[[甲陽軍鑑]]によれば憲重と併せて500騎持ち。
 
信貞の[[小幡氏(上野国)|小幡氏]]は[[小幡虎盛]]・[[小幡昌盛|昌盛]]とは別系で、元々[[上野国|上野]]の国人であり、父の憲重の時代に一族の内紛により[[山内上杉家]]や[[上野長野氏|長野氏]]から離反し[[武田信玄]]に仕えていた。信貞も父と共に信玄に仕えて、上野攻略戦を始め、[[三増峠の戦い]]や[[三方ヶ原の戦い]]等の主要な合戦に参加して武功を挙げている。[[1575年]]、[[長篠の戦い]]で父が戦死したため、家督を継いだ。[[[[甲陽軍鑑]]中に「信用できない[[木曽義昌]]の代わりに(織田領との国境である)[[木曽]]に小幡を入れたらどうか」という意の記述があり、甲陽軍鑑の信憑性はともかくとして、準譜代的な扱いを受けていた様である。<br>
 
[[天正]]10年([[1582年]][[武田氏]]が[[織田信長]]によって滅ぼされると、信長に降伏して[[滝川一益]]の与力として配属させられた。しかし同年に信長が[[本能寺の変]]で横死、それを受け[[北条氏直]]が滝川一益を[[神流川の戦い]]で破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となった。しかし[[1590年]]の[[小田原征伐]]で[[北条氏]]が滅亡すると、武士を辞めて、[[真田幸隆|真田幸綱]]の流浪時代から武田氏時代を通じて親交の深かった[[真田氏]](当時の当主は[[真田昌幸|昌幸]]で勝頼時代は上野方面攻略の責任者)を頼り、そこで余生を送った。1592年に死去。享年52。
 
一説では、父の憲重は大永年間に死去し、父の憲重の事績とされる事柄は信貞のことだとも言われている。また、[[赤備え]]の部隊を率いた勇猛果敢な武将であり、信長公記]]中の長篠合戦の項に小幡勢について「馬上巧者」の記述がある。[[武田二十四将|武田氏24将]]の一人として数えられる。