「ソ連邦建設」の版間の差分

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『'''ソ連邦建設'''』(それんぽうけんせつ)とは、[[1930年]]から[[1941年]]まで基本的に月刊で刊行されていた、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[プロパガンダ]]・グラフ[[雑誌]]。第1次5か年計画の成果を内外に知らしめることを目的として創刊された、国策宣伝誌である(政府の指示により、[[マクシム・ゴーリキー]](1868年-1936年)のもとで創刊された)。なお、ドイツの侵攻の影響により、1941年に刊行が中断するも、[[1949年]]に復刊、1950年には『Soviet Union』と名称を変えたが、同年に終刊。ちなみに、全体で何号刊行されたのかは定かではない。
 
露英独仏西の5か国語で刊行され、その順にタイトルは、СССР НА СТРОЙКЕ(エスエスエスエル・ナ・ストロイケ)、USSR in conctruction、USSR im Bau、URSS en construction(L'URSS en construction、と冠詞がつく場合もある)、URSS en construcciónで、日本語では、『建設のソ連邦(建設のUSSR)』・『ソ連建設』、などと訳されることもある。
 
美術的な観点から見ると、[[エル・リシツキー]]、[[アレクサンダー・ロドチェンコ]]、ニコライ・トローシン(Nikolai Troshin, Николай Степанович Трошин, 1897年-1990年)、マックス・アルパート(Max Alpert, Макс Альперт, Макс Владимирович Альперт, Максим Владимирович Альперт, 1899年-1980年)、[[ジョン・ハートフィールド]]、ソロモン・テリンガーテル(Соломон Бенедиктович Телингатер, Solomon Telingater, 1903年(トビリシ, Тифлис)-1969年(モスクワ))、ヴァルヴァーラ・ステパノーヴァ(Варвара Федоровна Степанова, Varvara Fedorovna Stepanova、1894年-1958年)らが編集や写真家として参加し、[[写真]]、特に[[フォトモンタージュ]]を積極的に用いた大胆な[[レイアウト]]により、宣伝的効果を最大限にするような工夫がなされている。
 
その他に、次のような写真家も参加したとされる。
*セミョン・フリードランド(Семён Осипович Фридлянд, Semion Fridliand, 1905年-1964年)
*ゲオルギー・ペトルソフ(Георгий Петрусов, Георгий Г. Петрусов, Georgy Petrusov, 1903年-1971年)
*ドミトリー・デバボフ(Дмитрий Дебабов, Дмитрий Г. Дебабов, Dmitry Debabov, 1901年-1949年)
*アルカディー・シャイヘト(Аркадий Шайхет, Аркадий С. Шайхет, Arkady Shaikhet, 1898年-1959年)
 
『[[ライフ (雑誌)|LIFE]]』など、他の雑誌に与えた影響も大きく、特に、日本の雑誌『[[FRONT]]』は、極めて強い影響を受けた[[原弘]]の[[アートディレクション]]のもと、この『ソ連邦建設』の日本版を目指して制作された。