「徳川頼職」の版間の差分

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第2代藩主[[徳川光貞]]の庶子。幼名は長七。元服して[[松平氏|松平]]姓を与えられて松平頼元と称し、その後、'''松平頼職'''に改め、従四位下[[近衛府|左近衛権少将]]の官位を受けた。[[元禄]]10年([[1697年]])、[[越前国]][[丹生郡]]に3万石を与えられ[[紀州徳川家]]から別家。
 
宝永2年(1705年)に兄で第3代藩主の[[徳川綱教]]が病気に倒れたためその養子となって[[徳川氏|徳川]]姓に復し、5月綱教が去するによって紀州藩を相続。8月には父光貞が去し、自身もその1ヵ月後に26歳の若さで病のため卒去した。藩主を相続してからすぐに去したため、紀州藩主の例である従二位権大納言の官位も[[征夷大将軍|将軍]]の[[偏諱]]も受けていない。法名:深覚院殿贈相公三品圓巌真常大居士
 
妻子はなく、弟の松平頼方が[[徳川吉宗]]となって紀州藩を継ぐ。