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2004年11月13日 (土) 15:28時点における版

クタイ王国(くたいおうこく)は、5世紀頃、カリマンタンボルネオ)島東部、マハカム川下流のクタイ周辺に栄えたヒンドゥー王国。クタイ王国の様子については、ムアラカマン遺跡から出土したユパと呼ばれる7つの石柱碑文で知られる。クタイの王であるムーラヴァルマンが動物などの犠牲を捧げた儀式を記念して建てたこれらの碑文は主としてサンスクリット語で刻まれた。碑文の記述から、クタイの最初の王は、クンドゥンガで次の王は、その子アシュヴァヴァルマンで、彼の元の名はワムサカルタ「家族を形成するもの」といい、~ヴァルマンというサンスクリット語由来の名前から、この王の治世からヒンドゥ教がインドネシアに入ってきたと考えられる。さて碑文の記述は、ムーラヴァルマンがいかに信仰心の篤い人格の優れた偉大な王であったか示されている。また、二万頭の牛を捧げて、ヴァラモンが祭祀をおこなったこと、王朝の創始者は、王の父アシュヴァヴァルマンで、彼の元の名はワムサカルタ「家族を形成するもの」といい、3人の息子がありその一人がムーラヴァルマンであったことを記す。~ヴァルマンというサンスクリット語由来の名前から、インドの影響が強くパラヴァ朝の影響ではないかと言われてきたが、クタイとジャワのタルマヌガラ王国の碑文は、碑文に用いられたブラーフミー文字が縦線の書き始めにbox headと呼ばれる四角い穴ができるという特徴を持ち、デカン高原カダンバ朝で用いられた書体であることが最近の研究で判明している。クタイ王国の年代はこの碑文の字体から5世紀頃であることが確定している。クタイの繁栄は、当時の商業上の交易ルートがマカッサル海峡通っていたことを示唆し、インドからの船はクタイに寄港し、フィリピン通過し、中国へ向かっていたと考えられる。なお、勅令(ピアグム)などを石の記念碑(プラサスティ)に刻むという習慣はインドネシア独特のものであり、「巨石伝統」と呼ばれ現在も形を変えて続いている。