「モーリッツ (ザクセン選帝侯)」の版間の差分
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[[画像:Moritz Sachsen.JPG|thumb|right|250px|ザクセン選帝侯モーリッツ]]
'''モーリッツ'''
== 生涯 ==
[[1521年]][[3月21日]]、[[ザクセン公]][[ハインリヒ4世ヴェッティン (ザクセン公)|ハインリヒ4世ヴェッティン]]の息子に生まれる。[[1541年]]、父が死亡したため、ザクセン公位を継承した。モーリッツは[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に従い、[[1542年]]には[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]と戦い、[[1543年]]にはチューリッヒ・クレーヴェ・ベルグ男爵ヴィルヘルムと戦い、[[1544年]]には[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と戦った。
[[1543年]]、カール5世はモーリッツにザクセン選帝侯位を与えることを条件に、[[シュマルカルデン同盟]]と戦うことを要請した。ザクセン公家は、[[1464年]]にエルンスト系とアルブレヒト系に枝分かれしており、当時は本家のエルンスト系がザクセン選帝侯位を有していた。シュマルカルデン同盟の指導者、[[ヨハン・フリードリヒ (ザクセン公)|ヨハン・フリードリヒ]](エルンスト系)が当時のザクセン選帝侯であった。また、もう一人の同盟の指導者[[ヘッセン方伯]][[フィリップ (ヘッセン方伯)|フィリップ]]はモーリッツの義父であった。つまり、モーリッツを引き入れることによって、同盟の中核を揺るがすことが出来たのである。モーリッツは条件を受け入れ、カール5世に味方することを宣言した。
[[1546年]]から開始された[[シュマルカルデン戦争]]において、モーリッツはカール5世の腹心として働き、[[1547年]][[4月24日]]の[[ミュールベルクの戦い]]でついに同盟を敗北させた。戦後、約束どおりモーリッツはザクセン選帝侯位と広大な領地を授かった。しかし、この裏切りのためモーリッツは「マイセンの[[イスカリオテのユダ|ユダ]]」と呼ばれるようになった。
戦争に勝利したカール5世は[[アウグスブルク]]に帝国諸侯、都市代表者を集め、[[ルター派]]を異端とする[[暫定規定]]の受諾を迫った。この時、[[マクデブルク]]だけが規定の受諾を拒否したため、カール5世はモーリッツを派遣して同市を包囲させた。しかし、自身[[プロテスタント]]だったモーリッツは、カール5世のやり方が許容できなかった。そこでモーリッツは、マクデブルクが降伏したかのように見せかけて包囲を解き、[[1552年]]3月、逆にアウグスブルクのカール5世を攻撃した。カール5世は[[インスブルック]]に逃亡し、弟の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]にモーリッツとの和平交渉を委ねた。
1552年8月、[[パッサウ]]でルター派を容認する旨の和平交渉が結ばれた。これは[[1555年]]の[[アウグスブルクの和議]]の原型となった。モーリッツは再びカール5世と協力し、混乱に乗じて侵攻してきたオスマン帝国を退けた。[[1553年]]、[[ブランデンブルク辺境伯]][[アルブレヒト (ブランデンブルク辺境伯)|アルブレヒト]]
== 参考書籍 ==
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* 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社現代新書
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