「東ローマ帝国」の版間の差分

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[[717年]]に即位した[[イサウリア王朝]]の皇帝[[レオーン3世]]は、[[718年]]に首都コンスタンティノポリスを包囲した[[イスラム帝国]]軍を撃退。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国は存続に成功した。しかし、宗教的には[[726年]]にレオーン3世がはじめた[[聖像破壊運動]]などで、東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し[[カトリック教会]]との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに[[787年]]、[[第2ニカイア公会議]]決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は[[フィリオクェ問題]]をきっかけとして顕在化し、「[[フォティオス]]の分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分離した([[東方正教会]]。最終的に分離したのは[[1054年]])。
 
[[800年]]にはローマ教皇が[[フランク]]王[[カール1世]]に「ローマ皇帝」として帝冠を授け([[カール大帝]])、政治的にも東西ヨーロッパは対立、古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海は西欧・東ローマ・イスラムに三分された。
 
7世紀には公用語も[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]へと変わった。こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」と称しながらも[[ギリシア人]]・[[東方正教会]]・[[ギリシア文化]]を中心とした国家となった。