「植村家包」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m +先代次代、年号等
7行目:
{{武士/別名|政文(別名)、刑部(通称)}}
{{武士/戒名|実応性遍縁院}}
{{武士/墓所|[[奈良県]][[高市郡]][[高取町]]上子島の宗泉寺}}
{{武士/官位|従五位下、刑部少輔、[[出羽国|出羽]]守}}
{{武士/藩|大和高取藩主}}
16行目:
{{武士/終了}}
 
1710宝永7(1710年)、第2代藩主・[[植村家貞]]の弟・[[植村政晴]]の孫に当たる2500石の[[旗本]]・植村政広の長男として生まれる。[[享保]]10年([[1725年]]、父の死去により家督を継いで旗本となる。しかし本家で第4代藩主・植村家敬の嫡男・[[植村高堅]]や養子の稲之助らが早世したため、享保14年([[1729年]]4)4月21日、家敬の養子となり、享保16年([[1731年]]に家敬が死去したため、後を継いで藩主となった。このとき、2500石は幕府によって収公されている。
 
1738元文38(1738年)8月13日に死去。享年29。後を養子の家道が継いだ。
 
{{先代次代|[[高取藩|植村氏(高取藩5代)藩主]]|1731~1738|[[植村家敬]]|[[植村家道]]}}
 
[[Category:植村氏|いえかね]]