「植村家道」の版間の差分

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{{武士/別名|三蔵(幼名)}}
{{武士/戒名|観道性応等覚院}}
{{武士/墓所|[[奈良県]][[高市郡]][[高取町]]上子島の宗泉寺}}
{{武士/官位|従五位下、[[出羽国|出羽]]守}}
{{武士/藩|大和高取藩主}}
{{武士/氏族|[[植村氏]]}}
{{武士/父母|父:[[植村家敬]]、母:真照院(於嘉久)<br>養父:''[[植村家包]]''}}
{{武士/兄弟|兄:[[植村高堅]]、'''植村家道'''}}
{{武士/妻|正室:[[松平頼渡]]の娘<br>側室:[[多田源蔵]]の娘、[[遠山周軒]]の娘・浄光院}}
{{武士/子|6男2女([[植村家久]]、[[植村家長]]、[[佐野義行]]、<br>[[植村家利]]、要之助、隼太、娘([[愛宕通直]]室)、<br>娘([[愛宕通真]]室)、娘([[三浦為脩]]室))}}
{{武士/終了}}
 
1730享保151(1730年)1月24日(異説として11月21日)、第4代藩主・植村家敬の四男として高取で生まれる。父が享保16年([[1731年]]に死去したとき、生まれたばかりであったために家督を継げず、第5代藩主・植村家包の養子となり、[[元文]]3年([[1738年]]の家包の死去で後を継いだ。1738元文3(1738年)から大和における[[天領]]の預かりを任されている。これには[[外様大名|外様の大名]]であった大和[[宇陀藩]]の[[織田信武]]騒動などが原因であった。
 
1767明和43(1767年)3月18日に死去。享年38。後を長男の家久が継いだ。
 
{{先代次代|[[高取藩|植村氏(高取藩6代)藩主]]|1738~1767|[[植村家包]]|[[植村家久]]}}
 
[[Category:植村氏|いえみち]]