「汎テュルク主義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Safkan (会話 | 投稿記録)
m トルクメニスタン語のラテン正書法は他と比べて独特で、トルコ語にならっているとはみなしがたいのでは。
10行目:
[[ロシア帝国]]政府は、こうした民族意識の高揚を警戒し、抑圧の対象とした。文章語の共通化を推進していた『[[テルジュマン]]』紙の主幹[[イスマイル・ガスプリンスキー]]らは、内務省当局や[[ロシア正教会]]関係者から「トルコのスパイ」として批判の矢面に立たされた。
 
一方、[[オスマン帝国]]では、[[1908年]]の[[青年トルコ人革命]]により、[[スルタン]]・[[アブデュルハミト2世]]が失脚した。[[アブデュルハミト2世]]は、[[カリフ]]としての宗教的権威を強調することで、[[オスマン帝国]]の対外的な威信を維持しようとしていたが、[[スルタン]]の失脚により、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]の統一性よりも[[テュルク]]としての民族意識を強調する言論が盛んに唱えられるようになる。また、[[タタール人]]の[[ユースフ・アクチュラ]]をはじめとする民族主義者が[[ロシア帝国]]から数多く亡命し、[[テュルク]]系諸民族の一体性を訴える汎テュルク主義は、[[第二次立憲制]]期の[[オスマン帝国]]において、大きな思想潮流となった。
 
[[第二次立憲制]]期に陸軍大臣を務めた[[エンヴェル・パシャ]]は、[[第1次世界大戦]]での敗北後、[[中央アジア]]の反ソ運動である[[バスマチ運動]]に参加し、[[トルキスタン]]の[[テュルク]]系諸民族の統一を画策したが、その背景には、こうした[[第二次立憲制]]期の知的風土があった。
37行目:
[[de:Panturkismus]]
[[en: Pan-Turkism]]
[[fa:پانترکیسمپان‌ترکیسم]]
[[fr:Panturquisme]]
[[lt:Pantiurkizmas]]