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松浸史 (会話 | 投稿記録)
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'''酒井 家次'''('''さかい いえつぐ'''、[[永禄]]7年([[1564年]]) - [[元和]]4年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[1618年]][[4月10日]]))は[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の人物。[[徳川氏]]の家臣。[[酒井忠次]]の嫡男。母は[[徳川家康]]の祖父・[[松平清康]]の娘で、家康の従兄弟にあたる。[[臼井藩]]主、[[高崎藩]]主、[[高田藩]]主。正室は[[榊原政吉]]の娘。子に[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|忠勝]]、[[酒井直次|直次]]、[[酒井忠重|忠重]]、[[酒井勝吉|勝吉]]、[[松平忠良]]室、[[水谷勝隆]]室、[[内藤忠興]]室、[[奥平忠隆]]室ら
 
==生涯==
幼少より家康の家臣として仕え、[[天正]]16年([[1588年]]、父の忠次の隠居に伴って家督を継いだ。天正18年([[1590年]]の[[小田原征伐]]後、家康から[[下総国]]臼井(碓井)に3万7000石を与えられる。しかし、[[松平信康]]の自害事件などが尾を引いて、父同様に家康からは疎まれていたとも言われている。[[関ヶ原の戦い]]でも活躍した。
 
[[慶長]]9年([[1604年]]に[[上野国]]高崎5万石に移封。その後は[[江戸城]]の留守居役や、[[大坂の役|大坂の陣]]では、力戦して数多くの敵を倒し活躍したと言われている。元和2年([[1616年]]に[[越後国]][[高田城]]主。10万石に移封、1618元和4年(1618に55歳で死去。
 
==関連項目==