「織田信良」の版間の差分

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元和8年1月5日、茶会を催し、[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]らを招く。元和9年5月、徳川秀忠に従って上洛する。元和10年1月2日、[[伊達政宗]]・[[毛利秀元]]らとともに[[江戸城]]西丸の[[徳川家光]]のもとに出仕する。同月、徳川秀忠の朝廷に対する使者として上洛する。寛永3年5月17日(1626年)、父に先立って43歳で死去し、家督は次男[[織田信昌|信昌]]が継いだ。墓所は小幡の宝積寺、後に崇福寺に改葬。法号は心芳院松岩浄青。
 
正室は大納言・[[久我通]]の三男[[下津俸庵]]の娘。子女は2男3女あり。次女と三女は[[稲葉信通]]に嫁いだ。