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'''クタイ王国'''('''クタイおうこく、Kerajaan Kutai)Kutai''')は、[[5世紀初め頃]]、[[カリマンタン]]([[ボルネオ]])島東部、[[マハカム川]]下流のクタイ周辺に栄えた[[ヒンドゥー]]王国。クタイ王国の様子については、ムアラカマン遺跡から出土したユパと呼ばれる7つの石柱碑文で知られる。クタイの王であるムーラヴァルマンが動物などの犠牲を捧げた儀式を記念して建てたこれらの碑文は主として[[サンスクリット語]]で刻まれた。碑文の記述から、クタイの最初の王は、クンドゥンガで次の王は、その子アシュヴァヴァルマンで、彼の元の名はワムサカルタ「家族を形成するもの」といい、~ヴァルマンというサンスクリット語由来の名前から、この王の治世からヒンドゥ教が[[インドネシア]]に入ってきたと考えられる。さて碑文の記述は、ムーラヴァルマンがいかに信仰心の篤い人格の優れた偉大な王であったか示されている。また、二万頭の牛を捧げて、[[バラモン]]が祭祀をおこなったこと、王朝の創始者は、王の父アシュヴァヴァルマンで、彼の元の名はワムサカルタ「家族を形成するもの」といい、3人の息子がありその一人がムーラヴァルマンであったことを記す。~ヴァルマンというサンスクリット語由来の名前から、[[インド]]の影響が強く[[パラヴァ朝]]の影響ではないかと言われてきたが、クタイとジャワの[[タルマヌガラ王国]]の碑文は、碑文に用いられた[[ブラーフミー文字]]が縦線の書き始めにbox headと呼ばれる四角い穴ができるという特徴を持ち、[[デカン高原]]の[[カダンバ朝]]で用いられた書体であることが最近の研究で判明している。クタイ王国の年代はこの碑文の字体から4世紀末~5世紀初め頃であることが確定している。クタイの繁栄は、当時の商業上の交易ルートが[[マカッサル海峡]]通っていたことを示唆し、インドからの船はクタイに寄港し、[[フィリピン]]を通過し、[[中国]]へ向かっていたと考えられる。なお、[[勅令]](ピアグム)などを[[石碑|石の記念碑]](プラサスティ)に刻むという習慣はインドネシア独特のものであり、「[[巨石記念物|巨石伝統]]」と呼ばれ現在も形を変えて続いている。