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#REDIRECT[[ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナ]]
'''バッティスタ・ファリーナ'''('''Battista Farina''', [[1893年]][[11月2日]] - [[1966年]][[4月3日]])は、[[イタリア]]最大の[[カロッツェリア]]である[[ピニンファリーナ]]([[Pininfarina S.p.A.]])創始者。[[イタリア]]・[[トリノ]]出身。愛称はバッティスタ・”ピニン”・ファリーナ(Battista "Pinin" Farina)。
 
11歳で兄弟ジョバンニの自動車ボディショップ、スタビリメンティ・ファリーナ(Stabilimenti Farina)で働き始める。個人的に第一次世界大戦中トレーナー飛行機の構造を監督、賞賛を受ける。
 
1920年、その手腕を確かめるため[[アメリカ]]・[[デトロイト]]へ渡り、[[ヘンリー・フォード]]に会いその価値を認められ、[[フォード]]・モーター社で働くように強く求められるが、[[イタリア]]へ戻ることを希望。帰国後、ローザ・コパッソ(Rosa Copasso)と結婚、1922年にジアンナ(Gianna)、1926年にセルジオ(Sergio)が生まれる。
 
1930年、ジョバンニのボディショップを離れ、自分の愛称をとり、[[カロツェリア・ピニンファリーナ]]社を設立。主に特別な自動車のボディを製作。手製の技能を超え、従業員が増えるに従い、1日7~8台のボディ製造ラインを確立させる。第二次世界大戦前、次々と革命的なデザインのボディを生産。外国の自動車メーカー向けの会社を設立するも、第二次世界大戦が始まり一時中断。
 
戦後直後から、多くの自動車メーカーのデザイン、ボディ生産を手がけ、遂に1958年、最も近代的な巨大プラントを設立。
 
1961年、法務大臣の提案で、[[イタリア]]大統領は社会的で産業の活動における彼の業績を考慮、彼の姓を[[ピニンファリーナ]](Pininfarina)への改名を認可される。また、彼の娘ジアンナの夫である[[レンツォ・カルリ]](Renzo Carli)、息子[[セルジオ・ピニンファリーナ]](Sergio Pininfarina)に経営権を譲るが、仕事は継続。
 
1966年4月3日永眠。
 
彼の業績を称えられ各国から、勲章、名誉市民など栄誉を受ける。
 
== 外部リンク ==
*[http://www.pininfarina.it/ ピニンファリーナ(Pininfarina S.p.A.)](英語・イタリア語)