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'''酒井 忠利'''('''さかい ただとし'''、[[1559年]]([[永禄]]2年) - [[1627年]][[12月21日]]([[寛永]]4年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[徳川氏]]の家臣。[[酒井正親]]の子で、[[酒井重忠]]の弟に当たる。母の妙玄尼は石川清兼と妙西尼([[徳川家康]]の母於大の姉)との間の娘であり、忠利は家康の再従弟となる。正室(寶鏡院)は、[[鈴木重直]](三河[[足助城]]主)の娘。長男は、後に[[大老]]となった[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]である。
 
兄と共に[[徳川家康]]に仕え、[[小牧・長久手の戦い]]では大いに戦功を立てた。[[天正]]18年([[1590年]]、家康が関東に移封されると、[[武蔵国]][[川越市|川越]]に3000石の所領を与えられた。[[慶長]]5年([[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では、[[徳川秀忠]]軍に属して[[信濃国]][[上田城]]に立て籠もる[[真田昌幸]](西軍)を攻めたが、成す術も無く大敗を喫した。
 
戦後、家康より7000石を加増され、合計1万石の大名として[[駿河国]][[田中藩]]に移された。慶長14年([[1609年]]、さらに1万石を加増され、合計2万石の大名として[[川越藩|川越]]に戻された。慶長19年([[1614年]]からの[[大坂の陣]]では[[江戸城]]の留守居役を務めた。その後もしばしば加増され、最終的には3万7000石を領する大名となった
 
1627寛永411(1627年)11月14日死去。[[享年]]69。墓所は[[埼玉県]][[川越市]]の源昌寺。
 
{{先代次代|[[田中藩|酒井氏(田中藩)藩主]]|1601~1609|-|[[松平忠重]]}}
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[[Category:江戸の大名|さかいたたとし]]
[[Category:譜代大名|さかいたたとし]]
[[Category:酒井氏|たたとし]]
{{生没年|さかいたたとし|1559年|1627年}}