「イルデブランド・ピツェッティ」の版間の差分

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[[パルマ]]出身。ピアニストで音楽教師であった父オドアルドから、[[ピアノ]]と音楽の手ほどきを受ける。最初は台本作家を目指していくつかの戯曲を手懸け、そのうち2作は舞台上演もされている。[[1895年]]に音楽家を志して地元の音楽院に進んだ。[[1897年]]からジョヴァンニ・テバルディーニの薫陶を受けて、イタリアの[[ルネサンス音楽]]に開眼、生涯にわたって自作や著作において影響を受ける。
 
[[フィレンツェ]]音楽院]]の教壇に立ち、[[1917年]]から[[1923年]]まで院長に就任。1923年には[[ミラノ]]音楽院]]院長に転出。門人に[[マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ]]、オルガ・ルジェ、[[フランコ・ドナトーニ]]らがいる。音楽評論家としては、イタリア音楽や古代ギリシャの音楽について数冊の著作を残し、音楽雑誌の共同創設者にも名を連ねた。
 
[[1940年代]]に[[ファシズム]]政権と近しかったことをめぐっては、しばしば積極的な評価も聞かれるものの、賛否両論に分かれている。成熟期に作曲された《交響曲イ調》は、「[[皇紀2600年奉祝曲]]」として日本政府より打診され、初演された後[[1940年]][[12月7日]]に録音された。