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'''リボー'''(''Ribot''、[[1952年]] - [[1972年]])は1950年代中頃に活躍した[[イタリア]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]である。16戦16勝、[[凱旋門賞]]連覇とほぼ完璧な競走成績を持ち、[[20世紀]]最強の1頭との声も高い。引退後は[[種牡馬]]としても成功した
== 生い立ち ==
リボーは1952年、イギリスのナショナルスタッドで生まれた。生産者であるフェデリコ・テシオはイタリアの天才馬産家で、年間十数頭の小規模な馬産活動ながらリボー以前にも[[ネアルコ]](Nearco)、[[ドナテッロ (競走馬)|ドナテッロ]](Donatello II)等を生産し「ドルメロの魔術師」と呼ばれていた。母ロマネラ(イタリア
生後すぐにイタリアに渡ったリボーだったが、子馬のころは大変小柄で、牧場でのあだ名は'''イル・ピッコロ'''(ちびっこ)
デビューに際してはテシオ厩舎のベテラン厩務員の1人マリオ・マルチェシが担当に決まった。彼が後年リボーを選んだ理由として語るには「賢そうな顔立ちと、動作が気に入った。なにより根性がありそうだ」とのこと。
== 現役時代 ==
=== 2歳時 ===
仔馬の頃には小柄な馬体であったが、2歳のデビュー時には162.6cmという大柄な馬体に成長していた。2歳時は、伊グランクリテリウムを含む3戦全勝でイタリアの2歳チャンピオンとなった。レースぶりはスタートから先行集団につけ、直線に入ってから後続を突き放すというスタイルであり、伊グランクリテリウムで[[騎手]]が抑える競馬を試したところリボーはやる気を無くしアタマ差勝ちと生涯唯一の苦戦を経験している。▼
テシオはリボーがデビューする僅か2ヶ月前に亡くなり、自身の最高傑作のレースを見る事はなかった。そのためテシオの盟友インサチ・デッラ・ロチェッタ侯爵が馬主となりデビューした。
クラシック登録がないリボー陣営は目標を故テシオの悲願だったフランスの凱旋門賞に定め、ステップレースのベサナ賞では後のイタリアの[[セントレジャーステークス]]優勝馬デレイン(Derain)に10馬身差をつけて完勝しフランスに遠征した。凱旋門賞では2番手を追走。最終コーナーで先頭にたつとリボーはそのまま後続を引き離し、ゴールではボウプリンス(Beau Prince)に3馬身差をつけて余裕の勝利を決めた。しかもこの僅か2週間後にイタリアの大レース[[ジョッキークラブ大賞 (イタリア)|伊ジョッキークラブ大賞]]で前年の勝ち馬ノルマンを相手に15馬身差で勝利している。▼
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4歳になってもリボーは圧勝を重ねた。初戦のグィリオヴェニノ賞を4馬身、2戦目のヴィチュオーネ賞を12馬身、3戦目のガルバニャーテ賞を8馬身、イタリア最大のレース[[ミラノ大賞典]]を8馬身と圧勝するが、イギリスでリボーの評価が低かった為、リボー陣営はイギリス遠征を決断し[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]へ出走、これを当時のレース最高着馬身差の5馬身の快勝をするとイギリスでの評価を覆した。この後、2度目の凱旋門賞を迎える、前年では9.6倍と低評価だったが、デビュー以来の15連勝を重ねたリボーは1.6倍の圧倒的1番人気に押されていた。レースは前年の再現で、3番手を追走し、直線で先頭に立つと独走態勢、6馬身差で圧勝した(史上最大着差、しかも写真等から実際には8~10馬身あったといわれている)。リボー16戦全勝のキャリアは20世紀欧州の連勝記録で、合計着差は100馬身に迫るものだった。▼
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||アタマ
||(ガイル)
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=== 3歳時 ===
▲クラシック登録がないリボー陣営は目標を故テシオの悲願だったフランスの凱旋門賞に定め、ステップレースのベサナ賞では後のイタリアの[[セントレジャーステークス]]優勝馬デレイン(Derain)に10馬身差をつけて完勝しフランスに遠征した。凱旋門賞では2番手を追走。最終コーナーで先頭にたつとリボーはそのまま後続を引き離し、ゴールではボウプリンス(Beau Prince)に3馬身差をつけて余裕の勝利を決めた。しかもこの僅か2週間後にイタリアの大レース[[ジョッキークラブ大賞 (イタリア)|伊ジョッキークラブ大賞]]で前年の勝ち馬ノルマンを相手に15馬身差で勝利している。
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|align="center"| 年月日
|align="center"| レース名
|align="center"| 着順
|align="center"| 騎手
|align="center"| 距離
|align="center"| タイム
|align="center"| 着差
|align="center"|1着馬(2着馬)
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|align="right"|1955年3月6日
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||15馬身
||(ノルマン)
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=== 4歳時 ===
▲4歳になってもリボーは圧勝を重ねた。初戦のグィリオヴェニノ賞を4馬身、2戦目のヴィチュオーネ賞を12馬身、3戦目のガルバニャーテ賞を8馬身、イタリア最大のレース[[ミラノ大賞典]]を8馬身と圧勝するが、イギリスでリボーの評価が低かった為、リボー陣営はイギリス遠征を決断し[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]へ出走、これを当時のレース最高着馬身差の5馬身の快勝をするとイギリスでの評価を覆した。この後、2度目の凱旋門賞を迎える。各国のクラシックホース7頭(他にワシントンDCインターナショナル勝ち馬マスターボーイング、
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|align="center"| 年月日
|align="center"| レース名
|align="center"| 着順
|align="center"| 騎手
|align="center"| 距離
|align="center"| タイム
|align="center"| 着差
|align="center"|1着馬(2着馬)
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|align="right"|1956年5月12日
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== 引退後 ==
種牡馬となったリボーは最初イギリスの[[ダービー伯爵]]の元で供用され、翌年から2年間イタリアのオルジアタ牧場で供用された。その後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のダービーダン牧場へ5年間のリース契約ながら135万ドルという史上最高価格が提示されアメリカに渡った。アメリカに渡ってからのリボーは環境の変化と加齢のためか、若い頃の人懐っこい性格は姿を潜め、非常に扱い辛い性格へとなっていった。そのため、5年後にイタリアに戻る予定が、渡航の危険性から保険の引き受け手が見つから
産駒は世界中に拡散したが、主に[[ヨーロッパ]]
* 1963、67~68年のイギリス[[リーディングサイアー]]
* 総産駒数 - 418頭、出走産駒 - 332頭(80%)、勝ち馬 - 247頭(59%)、2歳戦勝ち馬 - 76頭(18%)、ステークス勝ち馬 - 66頭(16%)、チャンピオンクラス - 9頭
=== 主な産駒 ===
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* リボッコ(Ribocco) セントレジャーステークス、アイリッシュダービーステークス
* リベロ(Ribero) セントレジャーステークス、アイリッシュダービーステークス
== 身体・精神面の特徴 ==
リボーは子馬のころはひょろっとした小柄な馬体で「イル・ピッコロ」(ちびっこ)と呼ばれた程だったが、成長すると逞しい馬体に成長した。引退寺の計測では体高162.6cm、胸囲188cm、官囲20.3cmで、賢そうな顔と、力強い後ろ脚が特に目立つ馬であった。
性格は概ね気難しい馬といったものだが、仔馬の頃は人懐っこく、晩年は決まった事以外の事をしようとすると暴れる気難しい馬へと変遷していった。もとから人の指図を受けるのは嫌いだったこと、見知らぬアメリカの地に渡った事で不安になった等と言われている。
== エピソード ==
* 担当厩務員のマリオ・マルチェシとの友情は知られている。また、引退式で騎手カミーチを振り落とし、また時には物を隠したりと悪戯好きな性格の持ち主だった。
* 引退後イギリスに渡る際には国会前で抗議運動が起こった。後イタリアに戻ったが、アメリカにリースされる際にはイタリア政府が絡み、種付け権5件をイタリア側が留保する形で契約が結ばれた。
* イタリア最大のスポーツ誌ガゼッタ・デロ・スポルトが発表した20世紀イタリアのスポーツ選手では第4位に選ばれている。競走馬として異例とも言える高評価である(その国で上位に選ばれたのは他にアメリカのセクレタリアト(集計元によって10~35位)がいる程度)。
* 一方競走馬のみを対象にしたタイムフォーム誌(イギリス)のランクでは第3位(143ポンド)になっている。
== 血統 ==
血統構成は、父方母方ともに3代に渡ってテシオの生産馬で占められる事が特徴となっている。テシオは自身の生産した種牡馬をあまり用いず、繁殖牝馬も牝系を育てる一方、毎年多くの馬を購入する事でめまぐるしく変えていた。このような血統構成を持つ馬は他にあまりおらず、いわばテシオにとってリボーは自身の集大成とも言える。
== 血統表 ==
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|mfff = [[ファラリス|Phalaris]]
|mffm = Scapa Flow
|mfmf = [[ゲイクルセイダー|Gay Crusader]]
|mfmm = Parasol
|mmff = Tracery
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