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===復古的箏曲様式の確立===
江戸時代の音楽は中期以降、[[三味線]]がリードしてきたが、幕末にはその技巧が発展の極に達してしまい、またそこに複雑に箏が絡み合う「替手」式合奏が発達、楽曲形式としての「手事もの」も完成し、行き着く所まで来たという感があり、それを超える新たな作曲表現が模索されるようになった。このような試みは幕末の音楽作品に色々なかたちで垣間見えるが、中でも、元禄の生田検校以来、三味線に対し従属的な立場にあった箏に再注目することによって、作曲に新たな方向性を見いだしたのが京都の[[光崎検校]]であり、「[[五段砧]]」「秋風の曲」など箏のみの名曲をも残している。吉沢検校もその影響を受け、古い時代の箏曲である「組歌」や、さらには雅楽家[[羽塚秋楽庵]]に[[雅楽]]を学んで研究し、楽箏の調弦にヒントを得た新調弦を考案、「古今組」「新古今組」をはじめとして箏本位の曲を多く作曲した。これらは箏曲本来の気品と雅楽的な古雅さを備え、一方で音楽的にはより自由な展開をさせ、近代的ともいえる印象的描写性もみられ、よく独自のスタイルを確立している。維新後には全国的に広く知られるようになり、特に「[[千鳥の曲]]」と同様の様式の曲が大阪を中心に各地で作られることとなった。「明治新曲」と呼ばれる曲群がそうである。また、例えば「[[千鳥の曲]]」に見られる海辺の描写的表現は、後世の「春の海」を予見させるものがある。つまり吉沢の箏作品(光崎検校の箏作品も含め)は「[[千鳥の曲]]」を一つの転換点として、明治以降の日本音楽の流れを方向づけることになったということもできるであろう。ただし作曲が進むに従い、晩期の作品では簡潔美の追求が進み、流麗さすら排除されて一般受けしづらくなる傾向にある。これは多分に人の世の煩瑣や最幕末の不安定な世相を厭う、芸術家としての孤高の精神の発露ゆえなのであろう。しかし、やはりこういった吉沢の路線を受け継ぎ、京極流を打ち立てた鈴木鼓村のような明治期の箏曲家もいる。このように幕末期の箏曲における吉沢検校の業績には、実に多大なものがある。しかし次に挙げるように、吉沢検校には従来の京流手事ものの作品や、胡弓のための作品も少なくないことを忘れてはならない。
 
===地歌作品と箏の手付け===