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'''懐風藻'''('''かいふうそう''')は、[[日本文学]]史上現存する最古の日本[[漢詩]]集。
 
[[奈良時代]]、[[天平勝宝]]三年([[751年]])の序文を持つ。纂された。撰者は良くわかっていない。詩人略伝に[[近江朝]]に同情的な筆致が伺われ、[[大友皇子]]の曾孫にあたる[[淡海三船]]を作者に擬すと考え根拠の一つと説が有力だが、確証はって
 
近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると想像されている。作品のほとんどは五言詩で、平安初期の勅撰3詩集が七言詩で占められているのと大きく異なる。
64人の作者による約120篇の詩からなりその大半が五言である。作者天皇をじめ、大友・[[川島皇子|川島]]・[[大津皇子|大津]]など皇子をはじめ、ほとん・諸王・諸臣・僧侶なが皇親・官人。作風は中国大陸、ことに浮華な[[六朝]]詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めている
 
古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家へ歩みが反映されている。『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し多くの作品を生んだという。
『懐風藻』成立当時は、[[和歌]]より漢詩の方が重要視され、また[[漢文]]が公式な文書とされていた。この集が収める作品も、多くが公の宴席で詠まれたものであり、当世の気風を反映している。
なお、『懐風藻』には[[『万葉集』]]に歌のない[[藤原不比等]]の漢詩がおさめられており、[[大伴家持]]は、[[『万葉集』]]に漢詩を残すものの、『懐風藻』には作品がない。大伴家持の「族をさとす歌」は、天平勝宝8歳に、淡海三船の讒言によって大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。
 
==関連項目==