「ルドルフ・フィルクスニー」の版間の差分

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1933年ロンドン・デビューし、以来国際的な活躍を続けたが、1938年に[[ナチス・ドイツ]]占領下に置かれた政府から親善使節にとの要請があったのを拒否し、国外追放処分となった。彼はまず[[パリ]]へ逃れ、次いで[[ロンドン]]にあった亡命チェコ政府の使節として[[アメリカ合衆国]]に渡り帰化した。アメリカでは[[ジュリアード音楽院]]で教師をするかたわら、幅広い演奏活動を行った。1959年[[オーストラリア]]へ招待された後は国際的な舞台で活躍し、日本にも1978年の初来日以来たびたび訪れて演奏会を行っている。しかし、祖国チェコではソ連型社会主義政府が倒れ民主化が達成されるまで演奏を行わなかった。とはいえ、チェコを訪問しなかったわけではなくたびたび訪れており、50代になってから結婚した妻はそうした折りに故郷の村で出会った民俗舞踏団の団員だった。
 
彼の演奏はその人柄を反映してか、けれん味がなく穏やかで自然な演奏であった。録音は比較的多く残されており、その滋味あふれる演奏を耳にすることができる。また、室内楽の名手としても知られ、多くの優れた録音を残している。レパートリーは、直接教えを受けた[[レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェク]]、チェコからの亡命者で苦労を共にした[[ボフスラフ・マルティヌー|マルティヌー]]の演奏は他の追随を許さないゴールデン・スタンダードであり、マルティヌーから難曲として知られる「幻想曲とトッカータ」を献呈され世界中でこの作品の普及にめた。祖国チェコの作曲家の[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]や[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]の演奏が高く評価されるのはもちろんのこと、疎かにされやすい[[ベンダ]]、[[ドゥシェック]]などのチェコ古典派の作品も、フレーズ全体にわたるテンポ・ルバートを多用する個性的な演奏で来日時に深い感銘を与えた。
 
作曲家としては、ピアノ協奏曲や弦楽四重奏曲、ピアノ曲、歌曲を作曲しているが、ピアニストとしての輝かしい業績に比べ、あまり知られていない。