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'''7代目市川中車'''(ななだいめ  いちかわ ちゅうしゃ)1860、[[1860年|1860(万延元)年~1936]] - [[1936年|1936(昭和11)年]]7月12日は、[[歌舞伎役者 ]]。本名橋尾亀次郎 屋号立花屋 紋三升の中に八の字
 
京都の両替商の子、[[1864年|1864(元治元)年]]、二代目[[尾上多見蔵]]の門人尾上常次郎として歌舞伎役者をはじめる。ちんこ芝居、小芝居、旅巡業などで修業、[[1871年|1871(明治4)年]]中山鶴五郎と名乗る。[[1875年|1875(明治8)年]]上京し春木座に出演。評判となり、やがてその実力が[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川十郎]]に認められ門人となる。[[1879年|1879(明治12)年]]7月、7代目市川八百蔵を襲名する。以後十郎と共演し歌舞伎界に確乎たる地位を築く。[[1918年|1918(大正7)年]]10月、養子[[市川中車 (7代目)|市川松尾(のちの代目市川中車)]]8代目八百蔵襲名させると同時に八百蔵の俳名である代目中車を名乗る。
 
門閥外から幹部まで出世した努力家で、師十郎譲りの硬派な芸風であった。『[[絵本太功記]]』・『[[時桔梗出世請状]]』の[[明智光秀|光秀]]、『[[新薄雪物語]]』の幸崎伊賀守、『[[妹背山婦女庭訓]]・吉野山』の大判事、『[[菅原伝授手習鑑]]・寺子屋』の松王[[伊賀越道中双六]]・岡崎』の幸右衛門、『[[ひらかな盛衰記]]・逆櫓』の樋口次郎など、時代物の立役を得意とした。また、『[[菅原伝授手習鑑]]・道明寺』の覚寿などの老女形も好演した。
 
東西の歌舞伎に通じた知識と豊富な経験は関係者に重宝がられた。特に、[[中村梅玉 (2代目)|二代目中村梅玉]]に死なれた[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]は、中車をよく相手役に選んだ。
 
晩年は歌舞伎界の長老として、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]][[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]、[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]など後進の指導にもあたった。
 
[[Category:歌舞伎役者|いちかわちゆうしや]]