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'''アンリ・フランソワ・ジョゼフ・ヴュータン'''('''Henri François Joseph Vieuxtemps''', [[1820年]][[2月17日]] - [[1881年]][[1月6日]])は、[[フランス]]で活躍した[[ベルギー]]人の[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]]。ヴェルヴィエール(''Verviers'')出身。

==生涯==
織匠と[[ヴァイオリン]]職工の家系に生まれる。音楽を愛好する家庭環境のもとに、アマチュアの父親と地元の音楽家からヴァイオリンの手ほどきを受け、6歳で[[ピエール・ロード]]の作品を弾いて公開デビューを果たした。
 
まもなく周辺の都市でも演奏するようになり、[[ブリュッセル]]で[[シャルル・ド・ベリオ]]の知遇を得て師事するようになる。[[1829年]]にベリオに連れられて[[パリ]]に向かい、この地でもロードの協奏曲を演奏して、大成功のうちにデビューをおさめた。だが翌年には[[フランス7月革命|七月革命]]が勃発した上、師のド・ベリオが[[マリーア・マリブラン]]とイタリアに駆け落ちしたため、単身ブリュッセルに戻って演奏旅行に備えなければならなかった。その後は自力でヴァイオリンの演奏技巧に磨きをかける。
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[[1871年]]に帰国し、ブリュッセル音楽院の教授として、[[ウジェーヌ・イザイ]]らの逸材を輩出する。[[脳卒中]]による[[麻痺]]により右半身の自由を奪われたため、音楽院の講座を[[ヘンリク・ヴィエニャフスキ]]にゆだねて、パリに渡って治療に専念した。次第に快復するかに見えた矢先の[[1879年]]、発作が再発、それきり演奏家としての経歴に終止符が打たれた。最晩年は娘夫婦の暮らす[[アルジェリア]]に引き取られ、大ムスタファ(Mustapha Supérieur)療養所において余生を過ごして作曲活動を続けたが、もはや演奏できず、ヨーロッパの芸術文化の中心地から遠く引き離され、自作が演奏されるのも聞くことさえままならぬ我が身の不幸を嘆いていた。
 
==主な作品==
ヴュータン作品の根幹をなすのはヴァイオリン曲であり、7曲以上ある協奏曲と、変化に富んだ短いサロン小品が含まれるが、生涯の終わりにかけてヴァイオリン演奏を断念してから、しばしば他の楽器に切り替え、2つの[[チェロ協奏曲]]と1つの[[ヴィオラソナタ|ヴィオラ・ソナタ]]などを作曲した。[[弦楽四重奏曲]]は3曲ある。しかしながら、ヴュータンがヴァイオリンの歴史において、フランコ=ベルギー楽派の卓越した演奏家として重要な地位を占めているのは、やはり7つのヴァイオリン協奏曲のおかげである。
 
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ソリストとしてのヴュータンは、自作のほかに[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の協奏曲(さらにベートーヴェンの室内楽曲)の演奏を通じて、当時のむやみと上辺だけの華やかさを追い求めるヴァイオリン界の風潮に規制を加え、古典的な奥行きをもたらした。ベルリオーズなどからの称賛は、今となっては過褒に思えるかもしれないが、それでもヴュータンがよい趣味の持ち主で、真の音楽的感覚にしたがっていたことは認めておかなければならない。決して先輩ヴァイオリニストたちのようには、薄っぺらな演奏技巧それだけに溺れたりはしなかった。結果として、ド・ベリオやロードなどの協奏曲が、その内容ゆえに時間の経過に堪えられなかったのに対して、ヴュータンの協奏曲は、たとえば[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の作例などと比較できるものになっている。
 
==主な作品==
===ヴァイオリン協奏曲===
* ヴァイオリン協奏曲第1番ホ長調 Op.10(1840年)