「阿部正耆」の版間の差分

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'''阿部 正耆'''('''あべ まさひさ''')は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]の第6代藩主。忠秋系阿部家14代
 
{{武士/開始|阿部 正耆}}
{{武士/時代|[[江戸時代]]末期([[幕末]])}}
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{{武士/氏族|[[阿部氏]]}}
{{武士/父母|父:[[阿部正粹]]、養父:''[[阿部正定]]''}}
{{武士/妻|正室:[[真田幸栄阿部正寧]]の娘<br>継室:(ほかに[[阿部正寧真田幸栄]]の娘とも)}}
{{武士/子|養子:''[[阿部正]]''(次男)子:''[[阿部正]]''}}
{{武士/終了}}
文政10年(1827年)10月24日、[[備後国|備後]][[福山藩]]主・[[阿部正寧]]の弟・[[阿部正粹]]の長男として生まれる。[[嘉永]]元年([[1848年]])に第5代藩主の[[阿部正定]]が若死にしたため、養子となってその後を継いだ。嘉永2年([[1849年]])6月に[[奏者番]]となるが、[[文久の改革]]で奏者番制度が廃止されたため、[[文久]]3年([[1863年]])4月から江戸、5月には大坂、8月には[[京都守護職]]となった[[松平容保]]の補佐として、それぞれ警備を務めるなど、佐幕派として行動した。しかし同年12月に病に倒れ、翌年3月2日に死去。享年38。墓所:[[東京都]][[台東区]]蔵前の西福寺。
 
文政10年(1827年)10月24日、[[備後国|備後]][[福山藩]]主・[[阿部正寧]]の弟・[[阿部正粹]]の男として生まれる。[[嘉永]]元年([[1848年]])に第5代藩主の[[阿部正定]]が若死にしたため、養子となってその後を継いだ。嘉永2年([[1849年]])6月に[[奏者番]]となるが、[[文久の改革]]で奏者番制度が廃止されたため、[[文久]]3年([[1863年]])4月から江戸、5月には大坂、8月には[[京都守護職]]となった[[松平容保]]の補佐として、それぞれ警備を務めるなど、佐幕派として行動した。しかし同年12月に病に倒れ、翌元治元3(1864年)3月2日に死去した。享年38。墓所:[[東京都]][[台東区]]蔵前の西福寺。
実子の正功は幼少だったため、養子の正外が後を継いだ。
 
実子の次男・正功は幼少だったため、養子の正外が後を継いだ。
 
 
{{先代次代|[[白河藩|阿部氏(白河藩6代)藩主]]|1848~1864|[[阿部正定]]|[[阿部正外]]}}