「サカガウィア」の版間の差分

ショーショーニー族インディアンの女性
削除された内容 追加された内容
新しいページ: ''''サカガウィア'''(Sacagawea、1788年-1812年1884年)とは16歳で赤子を抱えながら[[ルイス・クラーク探検隊|ルイス...'
(相違点なし)

2007年2月6日 (火) 16:52時点における版

サカガウィア(Sacagawea、1788年-1812年1884年)とは16歳で赤子を抱えながらルイスとクラーク遠征隊で重要な役割を果たし貢献たとして有名な、ネイティブアメリカンショショーニ族の少女である。硬貨

彼女は1788年平原インディアンのショショーニ族として生まれた。丁度その頃は平原部族の間で天然痘が流行し、多数の死者が出ていた。ショショーニ族の天然痘による被害は稀でだった。ノースダコタ州に定住していたヒダーツァ族はショショーニ族が住む、モンタナ州ロッキー山脈の山岳の方へと移動、そこでヒダーツァ族の戦士はショショーニ族を襲撃する。男4人と女4人が殺され、その時、生き残った彼女は10歳か12歳でヒダーツァ族の村に連れて行かれた。その後、彼女はマンダン族に引き取られ、さらに西部各地のインディアンと毛皮の取引をしていたフランスカナダ人の商人トゥーサン・シャーボノー(Toussaint Charbonneau)に引き取られ、彼女はシャーボノーと結婚した。当時アメリカ人からして見てまだ未知領域だった西部を探るため、トマス・ジェファーソン大統領の命令で30名余りの兵士で構成された遠征隊を西部へ派遣した。1804年5月14日の事でルイスとクラークの率いる遠征隊がミズーリ州セントルイスの近くの基地を出発し、三隻の船に分乗して、ミズーリ川を溯り、冬が近づく10月下旬にようやく、マンダン砦に到着して越冬の準備をする所だった。そして、そこでルイスとクラークは当時16歳だったシャルボノーの妻である彼女、サカガウィアに出会った。通訳の才能を見抜いたルイスとクラークは西部での旅でインディアンの各部族の言葉で通訳などが必要となると、彼女を通訳ガイドとして夫シャルボノーも一緒で雇う事にした。1805年2月11日越冬中のマンダン砦で彼女は男の子を出産した。この男の子はジーン・バプティステ・シャルボノーと名付けられた。冬湯が終わり春になると、遠征隊はヒダーツァ族から西部の地形を聞き出し、ミズーリ川に上がり、さらに西へと旅に出た。またルイスとクラークは険しいロッキー山脈の山岳を超えるにはショショーニ族を探し馬を手に入れなければならないと考え、そしてそこでショショーニ族でもある彼女に通訳や他の事などさせようと考えていた。実際に彼女は遠征隊に役立ち様々な面で貢献して行った。生後2ヶ月の子供を背負い、夫と共に危険な旅に同行する事になる訳だが、病に倒れたり危険で絶望になりそうな時でも彼女は冷静に対処し、探検隊の兵士達を勇気付けてきた。しかし彼女自身も熱病に冒され瀕死の状態になってしまう。ルイスはショショニー語が分かる通訳ガイドの彼女が死んでしまったら今後どうなってしまうのかと、彼女の容体を心配して見守った。野営地の近くで黄泉を見つた。バージニア州で温泉の湯が治療に使われていた事を思い出し、黄泉の湯を彼女を救う最後の手段として彼女に飲ませ、彼女はなんとか熱病を克服する事が出来た。1805年7月27日大滝を南下し、スリーフォークスの平原地域にたどり着いた。そこは彼女の部族が住む土地だった。一行はこの後、ショショーニ族すため南西し彼女が示した方角へショショーニ族を探しに行った。そして8月17日いるショショーニ族の一団と出会い、彼女は彼女と同じヒダーツァ族に捕まって自力で逃げてきたショショーニ族の少女とも再会する事が出来た。さらにショショーニ族を率いていた酋長カメアフウェイトは彼女の兄だった。その後、ショショーニ族の援助を受けさらに西へと探査して行った遠征隊の一行は、遂にオレゴン州に辿り付き太平洋に到達した。その後25歳の若さで亡くなるが、1999年にアメリカの1ドル硬貨の肖像のモデルに選ばれ、2000年には金色の硬貨も造られた。またノースダコタ州とオレゴン州に赤ん坊のジーン・バプティステを背負って旅をする姿をした彼女の銅像が建てられている。