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'''山田 宗昌'''(やまだ むねまさ、[[天文_(元号)|天文]]6年([[1537年]]) - [[元和]]6年([[1620年]]))は[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期の武将である。[[山田宗継]]の子。二郎三郎。土佐守。匡得。匡得は入道名で、「[[大江匡房]]の戦術を会得した」=「匡得」が由来という
他にも匡徳、京徳などと表記する文書もある。[[伊東氏|日向伊東氏]]、[[大友氏]]に仕えた
匡得は入道名で、「[[大江匡房]]の戦術を会得した」=「匡得」が由来という。
他にも匡徳、京徳などと表記する文書もある。
[[伊東氏|日向伊東氏]]、[[大友氏]]に仕えた。
 
天文24年([[1555年]])、[[北郷氏]]の豪傑・亀沢豊前を討ち取る。これ以降武名を知られ、伊東氏の飫肥攻めで活躍した。
 
[[天正]]5年([[1577年]])の伊東氏没落の際は飫肥におり、[[豊後国|豊後]]退去には遅れて従えなかったが、翌天正6([[1578年]])に豊後へ逃れ、[[伊東義祐]]・[[伊東義賢|義賢]]の命を受けて[[日向国|日向]]に潜行、情報収集などを行った。同年9月には[[木城町|石城]]で島津軍との激戦となり、負傷。[[耳川ため戦い]]に参加していないことから、[[美郷町 (宮崎県)|神門城]]に詰めて傷の治療をしており、[[耳川の戦い]]には参加でなかったものと思われる
 
伊東氏が[[伊予国|伊予]]に渡ったあとは大友氏に仕え、天正14年([[1586年]])には[[佐伯惟定]](宗天)と協力して[[栂牟礼城]]を守った。また[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の[[九州征伐]]軍にも参加し、[[島津家久]]の軍を破ったという。九州征伐後、[[伊東祐兵]]が旧領の飫肥に復したため、大友家を辞して伊東家に復帰、[[日南市|酒谷城]]主となる。この時、[[大友宗麟]]から餞別として色々威腹巻を贈られた。
 
[[関ヶ原の戦い]]では伊東氏は東軍につき、山田宗昌は[[黒田如水]]の示唆で日向国内の西軍方と戦った。山田氏はその後[[飫肥藩]]の重臣家となり、日向記ト翁本を編集した[[山田宗武]]などを輩出するした
 
なお、伊東家臣の山田氏は「都於郡四天衆」と呼ばれた日向都於郡土着の豪族の一で、薩摩山田氏とは系統を異にする。