「儒理尼師今」の版間の差分

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+img(略系図)
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{{朝鮮の事物|
| title=儒理尼師今
| picture=[[Image:Silla-monarch(1-12).png]]
| hangeul=유리 이사금
| hanja=儒理尼師今
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}}
'''儒理尼師今'''(じゅり にしきん、生年不詳 - [[57年]])は、[[新羅]]の第3代の王(在位:[[24年]] - 57年)であり、姓は朴氏。先代の[[南解次次雄]]の長子、母は雲帝夫人(または阿婁夫人)。王妃は日知[[葛文王]]の娘。紀元24年9月以降に南解次次雄が亡くなり、王位についた。
*『[[三国史記]]』新羅本紀の儒理尼師今紀の[[分注]]には王妃の姓を朴氏、許婁王の娘とする。『[[三国遺事]]』では王名を'''弩禮尼叱今'''(どれい にしきん、{{lang|ko|노례 이사금}}、ノリェ・イサグム)とする。
 
==即位まで==
南解次次雄が去したとき儒理は太子の位にあったが、妹の婿であり大輔の位にあった昔脱解(後の[[脱解尼師今]])が徳望を備えていたので脱解に王位を譲ろうとした。脱解は「聖人は歯が多いと聞きます。あなたと私とで餅を噛んでみて、歯の数を調べてみましょう。」と答え、儒理のほうが歯が多かったので国人は儒理を王に立て、尼師今と号した。
 
==治世==
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[[40年]]9月、先に楽浪から独立していた[[ワイ|濊]]の治める華麗県・不耐県が新羅の北辺に攻めてきたが、[[ワイ|貊]]国が出兵してこれら二県の兵を打ち負かした。儒理尼師今はこのことを喜んで、貊国と好を通じることとした。[[42年]]8月には貊国の首長は禽獣を献上してきた。『三国遺事』によれば、この年に伊西国を討滅し、高句麗から侵攻されたとする。
 
在位34年、儒理尼師今は57年9月に病に倒れ、脱解を王位につけるように訓示を残して10月に去した。父南解次次雄と同じように、始祖赫居世の陵である虵陵の域内に葬られた。
 
==王号について==
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==歌楽として伝えるもの==
国内に慰撫の施しをしたとき、このことに悦んだ国民が[[兜率歌]](とそつか)を作ったといい、これが新羅での初の歌楽とされる。また、[[新羅#六部|六部]]の改組を行った後に、六部を二つに分けてそれぞれに王女を配して二組に別け、7月16日(旧暦)から8月15日(旧暦)までの間、二組が互いに麻を紡ぎ、どちらがたくさん作れるかの競争をさせたという。負けたほうが勝ったほうに食べ物を捧げ、皆で歌ったり舞ったりする「嘉俳」という祭りとなった。負けたほうが感嘆して発する「会蘇」という声色が哀れながらも趣のあるものだったので、この声色に因んだ[[会蘇曲]](かいそきょく)という歌が作られた。
 
==参考文献==