「中村彝」の版間の差分

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*明治44年(1911)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫妻は、彫刻家・[[荻原守衛]](おぎわらもりえ)や[[中原悌二郎]]をはじめ多くの芸術家を支援していた。
*大正2~3年(1913-1914)にかけての彝の作品には相馬家の長女・俊子をモデルにした裸婦像が数点あり、2人の親密な関係が伺われる。彝は、俊子に求婚するが反対され、この失恋が元で煩悶することになる。
*[[大正9年]](1920)には前述の今村繁三邸でルノワールの作品を実見し、また院展の特別展示で[[オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]や[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]の作品を見て強い感銘を受けた。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられる。[[ワシーリー・エロシェンコ]]([[1890年]]-[[1952年]])はアジア各地を放浪していたロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた。
*[[大正10年]](1921)には病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。大正10年から翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していない。
*[[大正13年]](1924)、死去。満37歳であった。死の直前の大正12~13年に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』は、若い頃の自画像とは別人のように頬がこけ、眼の落ち窪んだ相貌になっているが、その表情には苦行僧か聖人のような澄みきった境地が感じ取れる。絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』(未完)
 
==主な作品==