削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
 
B.C.652[[献公 (晋)|献公]]が屈邑の[[恵公 (晋)|夷吾]]を攻める。夷吾が狄に出奔しようとすると郤芮は 「いけません。すでに重耳がいますので、今ゆかれると晋はかならず狄を討つでしょう。 狄は晋を恐れているので、君に禍が及ぶでしょう。梁は秦に近く、秦は強国ですから、わが君の死後、秦の後援で晋に入ることを求められたらよいと存じます。梁に逃げるに こしたことはありません」と進言する。夷吾はついに梁に出奔した。
 
B.C.651里克は奚斉、悼子を殺し、 呂甥が夷吾を迎えるため蒲城午を遣わした。
夷吾は郤芮に「呂甥がわたしを迎え入れようとしています」と相談した。郤芮は「国の内外に賄賂して、 財力を虚しくすることを惜しまず、帰国を求めるべきです」と言った。そこで夷吾は使者に会って再拝稽首して承諾した。
8 ⟶ 9行目:
こうして夷吾は帰国して晋公となった。
入国すると恵公のもとで恵公に反対する大夫をことごとく誅殺する。
 
B.C.650秦に使いしていた邳鄭が、秦の使者と共に賄賂を送ってきた。郤芮は呂甥・ 郤称と謀り「賄賂が手厚く、言葉が甘い。これは邳鄭がわれらを秦に売ったに違いない」 と言って邳鄭と七輿大夫を殺した。
 
B.C.649周襄王は召公過と内史過を使節として、 恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。郤芮は呂甥と共に恵公の礼を助けたが、恭敬の心に欠け、 恵公も玉圭を執ることが低く、稽首の礼をしなかった。内史過は襄王に「晋は滅亡しないとしたら、その君には世継がないでしょう。また呂郤ふたりとも難を免れません」 と報告した。
 
B.C.636[[文公 (晋)|重耳]]が帰国しようと黄河を渡って令狐・臼衰・桑泉の3邑を招くと、みな降服した。
2月、懐公は高梁へ逃走した。
郤芮と呂甥は兵を率い廬柳に陣を布いた。秦[[繆公 (秦)|繆公]]は公子縶を呂甥・郤芮のもとにやったので、 郤芮らは軍を引いて郇の地に駐屯した。
 
辛丑の日、[[狐偃]]が秦と晋の大夫と郇で和議を盟ったので、郤芮・呂甥は重耳の帰国を承認した。
3月己丑の日、郤芮は重耳が即位すると、彼に殺されるのを恐れ、文公を帰国させたことを後悔して、徒党とともに公宮を焼いて文公を殺そうとした。 しかし計画は勃鞮の密告により文公を取り逃がし、郤芮は兵を率いて文公を追った。