「浅野長広」の版間の差分

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[[宝永]]6年([[1709年]])8月20日、将軍徳川綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年([[1710年]])9月16日には新将軍[[徳川家宣]]に拝謁して改めて[[安房国]][[朝夷郡]]・[[平郡]]に500石の所領を賜り旗本に復した。またこれとは別に浅野本家からも300石を支給され続けた。ここに旗本ながら赤穂浅野家は「御家再興」を果たした。享保9年([[1724年]])7月19日、家督を嫡男の[[浅野長純]]に譲って隠居した。
 
享保19年([[1734年]])6月20日に65歳で没し、兄内匠頭や四十七士達と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は亮監院殿月清涼山大居士。また四谷の妙行寺には室の墓があり、そこでの法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。
 
{{先代次代|[[浅野氏|長広流浅野家初代当主]]|1710~1724|[[浅野長矩]]|[[浅野長純]]}}