「タオスの反乱」の版間の差分

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==反乱==
 
1847年1月19日朝、ヒスパニックのパブロ・モントヤと、タオスインディアンのトマス・ロメロ(トマシト)が率いる反乱者たちは、ドン・フェルナンド・デ・タオス (現在の[[ニューメキシコ州]][[タオス]])で蜂起を開始した。トマシト率いるインディアンらは、[[チャールズ・ベント]]知事の家に行き、ドアを壊し、ベントを狙って数回矢を放ち、彼の妻と子供たちの前で恥をかかせ殺害した。他の数名の政府高官たちも同様に殺害されるか、恥をかか負傷せられた。翌日、およそ500名のメキシコ人とインディアンの暴徒は、タオスから数マイル離れたアロヨ・オンドにあるシミオン・ターリーズ製粉所を攻撃し取り囲んだ。8名から10名のマウンテンマンが製粉所を守り、一日中続いた戦闘の後、[[ジョン・デイヴィッド・アルバート]]と[[トマス・タイト・トビン]]の二人のマウンテンマンが生き残った。二人は夜の戦闘のいざこざの間、別々に徒歩で逃亡した。同日、メキシコ人暴徒らは、モラの村を通過していた7名のアメリカ人商人を殺害した。後に[[スターリング・プライス]]大佐は、反乱者たちはアメリカ政府の支配を承認するすべての人に死を与えることを目的としていた、と後に[[スターリング・プライス]]大佐は書いている。
 
==アメリカの対応==