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'''今川 範忠'''('''いまがわ のりただ'''、[[1408年]]([[応永]]15年)-[[1461年]]([[寛正]]2年)?)は、[[室町時代]]中期の[[守護大名]]。[[駿河国|駿河]][[今川氏]]の第5代当主。第4代当主・[[今川範政]]の子。官位は民部大輔。[[上総]]介。通称は今川彦五郎。
 
嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の[[小鹿範頼|今川千代秋丸]]に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。[[1433年]]、父が死去すると、[[鎌倉公方]]の[[足利持氏]]との対抗上から、幼年の千代秋丸より成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた将軍・[[足利義教]]の裁定により、在京中の範忠が家督を継いで当主となった。このとき、一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景としてこれを鎮圧している。これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、[[永享の乱]]や[[結城合戦]]では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「'''天下一苗字'''」(この世に一家だけの姓とする)の[[恩賞]]が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。[[1455年]]には将軍・[[足利義政]]から[[古河公方]]・[[足利成氏]]討伐を任じられているが、それは実現させることができずして終わった。範忠が病に倒れていたためとも、領国を離れて遠征することができなかったためとも言われている。1461年[[3月20日 (旧暦)]]子の[[今川義忠]]に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)。
 
家督相続時に義教から大恩を受けていたため、終始幕府に忠実で、関東の監視役を務めていた。