「上田政盛」の版間の差分

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[[長享の乱]]で活躍して対立する[[山内上杉家]]領であった[[神奈川湊]]を支配下に置くが、[[永正]]2年([[1505年]])に扇谷上杉家が山内上杉家に降伏したためにこれを奪われる。これを恨んだ政盛は永正7年([[1510年]])6月にに当時相模西部を制圧していた[[伊勢宗瑞]]([[北条早雲]])の調略に応じて相模国境に近い[[武蔵国]][[権現山城]](現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]])で挙兵した。
 
これに対して扇谷上杉家の[[上杉朝良]]と山内上杉家[[上杉憲房]]は7月に権現山城を包囲して、援軍に駆けつけた[[後北条氏|伊勢(北条)軍]]を撃破する。政盛は激しく抵抗したものの、権現山城は陥落して政盛は戦死したとも正忠ら一族とともに宗瑞の元に逃れたとも言われている。その後、正忠は[[小田原市|小田原]]で病死したとされている。ただし、後の[[小の戦い]]において扇谷上杉家の将に「'''上田蔵人'''」と名乗る人物が記録されているため、政盛あるいはその後継者が扇谷上杉家に復帰した可能性もある。
 
ともあれ、これによって相模守護代を務めた上田氏宗家は没落して庶流とされる[[上田朝直]]らが扇谷上杉家の重臣として名前を連ねる事になる。また、長享の乱以来曲がりなりにも続いてきた伊勢氏(後の[[後北条氏|北条氏]])と[[上杉氏]]との同盟関係が完全に破綻して以後の両者は関東の覇権を巡って激しく争う事になった。