「永正の乱」の版間の差分

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*[[越中国|越中]][[神保氏]]討伐:[[1519年]] - [[1522年]] … 長尾為景が父・[[長尾能景]]を死においやった[[神保慶宗]]を[[能登国|能登]]守護[[畠山義総]]とともに攻め滅ぼす。「越中永正の乱」とも。
 
いずれも原因こそ別々のものではあるが、越後の内乱の発端である長尾為景の謀叛の背景には為景の父・能景に神保慶宗救援に向かわせたものの、の慶宗の裏切りによって討たれた事件([[般若野の戦い (戦国時代)|般若野の戦い]])があり、越後の内乱による上杉顕定の戦死が山内上杉家の内紛の端緒であり、その対応で足利政氏親子の意見が割れた事が内紛再燃の原因となった。更に越後の内乱終結後の長尾為景の国内引締めの一環として神保氏討伐が位置づけられているため、これらの戦いは相関性の高いものであると考えられている。
 
[[Category:日本の戦国時代の戦い|えいしようのらん]]