「細川清氏」の版間の差分

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清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り、分国の若狭において[[半済]]を強行するなど強引な行動も多く、幕政では分国を巡る争いのあった[[斯波氏]]や、同格の[[仁木義長]]らの政敵も多かった。[[1360年]]([[正平]]15年/[[延文]]5年)[[5月 (旧暦)|5月]]、清氏と国清は南朝掃討のため河内へ出陣するが、兵を返して京都へ迫り、義長を排斥することに成功。
 
清氏は幕政の実権を握ったが、国清の鎌倉帰還や南朝勢力の進出で反派は清氏打倒を計画し、[[1361年]](正平16年/[[康安]]元年)9月には、清氏の留守中に将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぎ、清氏は弟の頼和、信氏らとともに分国の若狭へ落ち延びる。古典『[[太平記]]』では、清氏失脚の首謀者は[[佐々木道誉]]であり、清氏に野心があったと記されている。[[今川貞世]](了俊)の記した『[[難太平記]]』では清氏は無実で、道誉らの策謀があったと推測している。
 
若狭へ逃れた清氏は無実を訴えるが、[[摂津国]]で南朝方に属する。12月には[[楠木正儀]]・[[石塔頼房]]らと[[京都]]を攻略するが幕府の反撃に遭い、翌62年(正平17年/[[康安]]2年)には細川氏の[[国人]]層が強固であった[[阿波国]]へ逃れる。清氏は讃岐へ移り、義詮から清氏追討を命じられた阿波守護で、清氏の従弟にあたる[[細川頼之]]に対しては、[[小豆島]]の佐々木信胤や塩飽諸島の塩飽[[水軍]]などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現[[香川県]][[綾歌郡]][[宇多津町]]、[[坂出市]])を本拠に宇多津の頼之勢と戦う。古典『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。なお、清氏の実子である正氏は、その後も南朝に属して抵抗する。
 
坂出市には、清氏はじめ被官36名が埋葬された「三十六」や、「細川将軍戦跡碑」などがある。
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