「織田長頼」の版間の差分

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'''織田長頼'''(おだ ながより、[[元和]]6年([[1620年]]) - [[元禄]]2年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1689年]][[5月21日]]))は江戸時代の[[大名]]。[[大和国]][[宇陀松山藩]]主。[[織田高長]]の次男。生母は富田氏。初名は信尚。通称は右近。官位は従四位下侍従、伊豆守、山城守。
 
元和6年(1620年)、[[加賀国]]にて誕生。慶安元年(1648)12(1648年)12月晦日従四位下に叙任する。後に侍従に任官する。[[万治]]2年([[1659年]])[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]、父高長の隠居によって家督を相続、第3代宇陀松山藩主となる。翌年9月3日弟[[織田長政|長政]]に3000石を分け与える。これにより、宇陀松山藩の石高は28235石余となる。なお、弟長政は、[[江戸幕府|幕府]]の[[交代寄合]]に加えられる。長政の子[[織田信明|信明]]は、[[高家|高家旗本]]になる。
 
『[[徳川実紀]]』には、将軍[[徳川家光]]の名家優遇のエピソードとして、無官であった織田長頼を信長の子孫にあたることから正月に単独で拝賀させたことを記している。また、[[寛文]]5年(1665年)4月17日、実弟[[織田信久]]とともに[[江戸城]]紅葉山における八講会の予参を務めている。こうしたことも国主に準じた待遇であったことを示している。
 
寛文11年(1671年)、領内の春日村に新たな[[陣屋]]を建築した。「松山新陣屋」と称された。貞享5年(1688年)9月12日松山城下に一族の[[織田長清]]、[[織田秀親]]らを招き、能を催した。元禄2年(1689年)2月22日将軍[[徳川綱吉]]に招かれて登城し、能を見物、自身も舞った。同年4月3日に江戸で死去、享年70。松山の徳源寺に葬られた。後に[[近江国|近江]][[安土城]]跡に改葬される。
 
正室は[[金森重頼]]の娘。子女に長男[[織田信武|信武]](宇陀松山藩主)、3男[[織田長清|長清]]([[大和国|大和]][[戒重藩]]主[[織田長明|長明]]養子)、娘([[加藤泰觚]]室)、娘([[松平正久]]室)、娘([[土方豊高]]室)、娘([[秋月種封]]室)らがいる。
 
{{先代次代|[[宇陀松山藩|宇陀松山藩3代藩主]]|1659~16891659 - 1689|[[織田高長]]|[[織田信武]]}}
 
[[Category:織田氏|なかより]]
[[Category:江戸の大名|おたなかより]]
[[Category:外様大名|おたなかより]]
{{[[Category:1620年没年|おた なかより|1620年|1689年}}]]
[[Category:1689年没|おた なかより]]