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'''中臣金'''(なかとみ かね、生年不 - 天武天皇元年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]([[672年]][[9月24日]]))は、[[飛鳥時代]]の官人。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓([[カバネ]])は[[連]]。父は[[中臣糠手子]](なかとみのぬかてこ)。[[藤原鎌足|鎌足]]の従兄弟にあたる。[[天智天皇]]、大友皇子([[弘文天皇]])に重臣としてつかえ、[[壬申の乱]]で敗れて処刑された。[[右大臣]]。
 
[[中臣氏]]は神事・祭祀をつかさどった氏族である。中臣金も天智天皇9年([[670年]])に山御井の傍らで神々をまつったときに[[祝詞]]を宣した。だが、一族の指導的な存在であった藤原(中臣)鎌足の死後、一族の中心人物として急速に出世する。翌天智天皇10年([[671年]])1月5日には、天皇の勅命により神事を宣べるとともに、同日に[[右大臣]]に任じられた。同時に大友皇子([[弘文天皇]])が[[太政大臣]]に、[[蘇我赤兄]]が[[左大臣]]に、[[蘇我果安]]、[[巨勢人]]、[[紀大人]]が[[御史大夫]]に任命された。このときの金の[[冠位]]は[[大錦上]]であった。
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大海人皇子は天武天皇元年([[672年]])6月に挙兵して[[壬申の乱]]を起こした。戦局が大友皇子側に不利となり、7月22日に瀬田で最後の決戦が行われたとき、中臣金は大友皇子に従って出陣した。この戦いで敗れると、中臣金は逃げた。大友皇子は7月23日に自殺に追い込まれ、金はその後に捕らえられた。『[[日本書紀]]』は7月24日の条文で「左右大臣諸々の罪人を探り捕らえた」と記す。一か月後の[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]に、[[近江国]][[浅井郡]]田根(現在の[[滋賀県]][[東浅井郡]]北部)で斬り殺された。子孫は流罪になった。
 
[[Category:壬申の乱|なかとみのかね]]
[[Category:飛鳥時代の人物|なかとみのかね]]
{{没|なかとみのかね|672年}}
[[Category:中臣氏|かね]]
[[Category:壬申の乱|なかとみの かね]]
[[Category:飛鳥時代の人物|なかとみの かね]]
{{[[Category:672年没|なかとみの かね|672年}}]]