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'''松平 斉斎'''(まつだいら なりとき、[[1815年]][[4月27日]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[1863年]][[5月1日]]([[文久]]3年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]))は[[出雲国]][[松江藩]]の第9代藩主。父は第8代藩主・[[松平斉恒]](斉斎は長男)。母は斉恒の側室・八百。正室は[[鍋島斉直]]の娘。子に[[松平直応|直応]]、照姫([[松平定安]]室)、政姫([[堀田正倫]]室)。藩主時代は'''斉貴'''(なりたか、又は、なりたけ)と名乗った。'''斉斎'''は隠居させられた後に名乗った名前である。官位官職は従四位上、出羽守、左近衛権少将。
 
1815文化123(1815年)3月18日生まれ。初名は直貴。[[文政]]5年([[1822年]]3)3月、父の死により同年5月23日に家督を継いで藩主となった。しかし幼年のため、家臣の[[塩見宅共]]・[[朝日重邦]]([[朝日保定]]の子)の後見を受けた。斉貴の時代、松江藩では天保の飢饉をはじめとする天候不順や水害、さらには領内では火事など天災が相次ぐ多難の時代であった。ところが斉貴は政治に関心を示さない無能な人物で、幕府に12万両もの献金を行なった上、相撲や鷹狩などに興味を示して藩財政を極度に悪化させた。
 
このため[[嘉永]]6年([[1853年]]9)9月5日、遂に家臣団の間で斉貴廃立の動きが表面化して斉貴は強制的に隠居され、[[津山藩]]から迎えた[[松平定安]]を新たな当主として擁立したのであった。隠居後の1863年文久3年(1863年)3月14日、49歳で死去。法号は直指庵。墓所は[[島根県]][[松江市]]外中原町の[[月照寺 (松江市)|月照寺]]。
 
 
{{先代次代|[[松江藩|越前松平氏(松江藩9代)藩主]]|1822~18531822 - 1853|[[松平斉恒]]|[[松平定安]]}}
 
[[Category:江戸の大名|まつたいらなりとき]]
[[Category:親藩|まつたいらなりとき]]
[[Category:松平氏|なりとき]]
{{[[Category:1815年没年|まつたいら なりとき|1815年|1863年}}]]
[[Category:1863年没|まつたいら なりとき]]