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'''松平 武聰'''('''まつだいら
[[徳川慶喜]]の弟に当たる。幼名は十郎麿。[[弘化]]4年([[1847年]])、先代藩主の[[松平武成]]が若死にしたため、その養嗣子として後を継ぐ。藩政においては[[嘉永]]6年([[1853年]])、倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに[[高津川]]の治水工事や[[河鰭監物]]登用による石見半紙、養蚕業などの殖産興業化を推し進めて藩財政を再建した。[[安政]]元年([[1854年]])に叙任している。
幕末期の動乱の中では、斉昭の子で慶喜の弟であることから佐幕派として行動し、[[慶応]]2年([[1866年]])の[[第2次長州征伐]]にも参加したが、このときに藩主の武聰は病に臥していたために指揮が執れず、さらに[[長州藩]]の[[大村益次郎]]率いる精強な軍勢の前に[[山本半弥]]率いる浜田軍は壊滅。このため、長州軍が逆に侵攻してくると、武聰は7月18日に浜田城に火を放って[[杵築]]に逃亡する。後に[[松江]]まで逃れ、慶応3年([[1867年]]
後に鶴田藩は2万8000石、6万1000石と加増されている。
{{先代次代|[[越智松平家|越智松平家歴代当主]]|
{{先代次代|[[浜田藩|越智松平氏(浜田藩4代)藩主]]|1847 -
{{先代次代|[[鶴田藩|越智松平氏(鶴田藩)藩主]]|1867 - 1871|-|-}}
[[Category:松平氏|たけあきら]]
[[Category:江戸の大名|まつたいらたけあきら]]
[[Category:親藩|まつたいらたけあきら]]
[[Category:1882年没|まつたいら たけあきら]]
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