「洗礼」の版間の差分
→幼児洗礼
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===幼児洗礼===
教会の信仰に基づき、乳児や児童に授けられる洗礼を[[幼児洗礼]]または[[小児洗礼]]という。
幼児洗礼は、キリスト教初期からすでに行なわれ、今日まで行なわれ続けてきた。
キリスト者の家庭に生まれた幼子はすでにキリストの教会の肢の一つであると理解され、神の民の肢として理解される。
ツヴィングリは、幼児洗礼は、神の民の肢として生まれた子供に対して、教会が責任を持つしるしであると理解した。
カルヴァンも、キリスト者の幼子は、すでにキリストの教会の生きた肢であると考え、このキリスト者の幼子も、神の民の中に生まれたのであるから、洗礼を妨げてはならないと考える。
マルチン・ルターは、幼児洗礼は「神の賜物」であって、完全に受動的に受ける聖霊の働きであると理解した。洗礼によって受ける聖霊の働き(神が幼子のうちに初めて下さる御霊の働き )によって、心からの真実な信仰の告白に導かれると理解した。
幼児洗礼が古代教会において、明らかな事実としてなされたことの理由は、「神ご自身が洗礼を通して行為しておられる」という理解によっていた。
また幼子は弱く、神の恵みに委ねることなくしては成長できないと考えられていた。
幼児洗礼は、神が、洗礼を通して幼子をあわれみ、洗礼によってキリストにゆだねられ、闇の支配から聖霊によっていのちへ移されるその確信において、洗礼がほどこされたのである。
しかし、洗礼が、神に対する人間の従順の行為(人間から神への誓約)とされ、神の人間に対する救いの業として理解されなくなったなら、幼児洗礼は否定されるだろう。
===洗礼の相互承認===
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