「宇治橋 (伊勢市)」の版間の差分

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現世と来世の利益を庶民に説いて回った'''稲苅十穀乗賢'''という聖が、[[1477年]]([[文明 (元号)|文明]]9年)に宇治橋を造営する資金の調達に成功した。'''沙門道順'''、'''観阿'''などの活動がこれに続き、'''守悦'''(しゅえつ)は8年の活動ののちに[[1505年]](永正2年)に'''御裳濯橋'''架橋を成功させた。これら聖は宇治橋だけでなく、[[風日祈宮]]参道の'''風日祈宮橋'''も造替している。守悦法師から3代目の'''清順'''は[[1547年]]([[天文 (元号)|天文]]16年)に御裳濯橋を造営し、戦国時代末期の[[1563年]]([[永禄]]6年)、約150年間途絶えていた[[豊受大神宮|外宮]]の遷宮を再興させた。この功績で清純は[[後奈良天皇]]から'''慶光院'''の号を許され'''慶光院上人'''となり、守悦は初代慶光院上人と呼ばれるようになった。[[1594年]]([[文禄]]3年)に[[豊臣秀吉]]が[[宮川]]下流左岸の磯(現在の伊勢市磯町)の100石を慶光院の寺領として与えた。磯の住人には神宮式年遷宮で内宮正殿の'''御扉木'''の用材を奉曳(用材を運搬すること)する特権が与えられた。磯の住民による奉曳は'''慶光院曵'''(けいこういんびき)と呼ばれ、慶光院が[[明治]]に廃寺となったのちも受け継がれ、第62回神宮式年遷宮での御扉木は2006年に慶光院の子孫と磯の住民などにより宇治橋の前を経由して奉曳された。[[天正]]年間に'''海賊大名'''で知られる[[九鬼嘉隆]]が'''宇治橋奉行'''を務めた。<!--いつから宇治橋と呼ばれるようになったのか加筆が望まれます-->
 
[[江戸時代]]になり[[大阪夏の陣]]で[[豊臣氏]]が滅んでから4年後の[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)には時の[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]が宇治橋を造替した。[[徳川幕府]]の政権下で日本の政情が安定すると、[[御師]]が活発に活動するようになり、安定した資金調達により式年遷宮は途絶えることはなくなり、宇治橋の造替も滞りなく行なわれた。[[お蔭参り]]が流行したころには宇治橋五十鈴川へ投げ銭をする参拝客が多く、橋の下で投げ銭を網で拾う人が現れ'''網受け'''と呼ばれた。網受けは明治初頭に神域に相応しくないと禁止された。懐かしむ声により一時的に復活したものの、再び禁止された。
 
[[明治]]初期までは宇治橋の内にも民家があったが、'''神苑会'''による神苑整備の一環として退去させられた。このころに五十鈴川は石垣で護岸され、宇治橋西側が参道口として整備され饗土橋姫神社が山寄りに移動させられ、現在の宇治橋前の景観が整えられた。<!--明治以降手抜きにつき加筆を希望します-->