「アントニヌスの長城」の版間の差分

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164年、ローマ軍はハドリアヌスの長城へ撤退し、アントニヌスの長城は建設後わずか20年で放棄された。のちにブリソン族と講和し、この周辺は辺境の緩衝国となり「かつての北辺」となった。197年に再び戦闘状態となった際、セウェルス帝は辺境防備のため208年にスコットランドへ至り、長城の補修を命じた。この遠征は数年に過ぎないものだったが、のちのローマの歴史家によって「セウェルスの長城」とも呼ばれている。
 
<!--Although most of the wall has been destroyed over time, sections of the wall can still be seen in [[Bearsden]], [[Kirkintilloch]], [[Twechar]], [[Croy, North Lanarkshire|Croy]], [[Falkirk, Scotland|Falkirk]] and [[Polmont, Scotland|Polmont]].-->
長い年月の間に風雨にさらされたり建築材料になってしまったりしたので現在ハドリアヌスの長城もアントニヌスの長城もほとんど残っていないがそれでもビアースデン、カーキントルック、トゥェーカー、クロイ、ファルカ^ク、それにポルモントなどに行けば現存する長城の一部を見ることができる。
 
It is a putative [[World Heritage Site]] [http://news.bbc.co.uk/1/hi/scotland/tayside_and_central/6290053.stm].