「根岸信五郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
寺の名→多福院
8行目:
 更に彼は当時もっとも剣理に明るいとされたことから、[[大日本武徳会]]剣術形・大日本帝国剣道形(今の[[日本剣道形]])制定で委員・主査筆頭をそれぞれ務めるなど、戦前の近代日本[[剣道]]確立に尽力した。
 
信五郎には夫人(名は玉子)がいたが、実子が無く、有信館の高弟であった[[中山博道]]に神道無念流の道統を継がせ養子とした。大正2年(1913)9月15日没す([[享年]]70)、法名は有信院殿顕揚祖道無念大居士。東京の[[南麻布]]の天真寺に葬られ今もそこに墓がある。また、港区愛宕の[[曹洞宗]]青松寺に彼の弟子らが建立した巨大な顕彰碑があったが、[[平成]]11年([[1999]])再開発で埼玉県[[戸田市]]内の寺(多福院)に移転した。
 
根岸信五郎自身の著述ではないが、彼が剣道についてその基本と理について解りやすく述べたものを彼の弟子が書き留めた、「根岸信五郎先生講話録」が伝わっている。この中で、剣の業前(わざまえ)について「気勢」・「機を見るに敏捷なること」・「技倆(技量)」の重要性を挙げ、これらの前提として「まずおのれを知ること」・そして「手足身の一致」が