「祖心尼」の版間の差分

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このような日々を送るうち、おなあは将軍徳川家光の勧めもあって、寛永20年([[1643年]])に[[出家]]し「祖心尼(そしんに)」と名乗った。
 
祖心尼と春日局の性格は正反対であったといわれるが、祖心尼に対する春日局の信任は篤かったようで、重要な案件について、局は必ず祖心尼に相談したという。また、家光の信任も篤く、彼の好みを知り尽くしており、のちに後継将軍となる[[徳川家綱|家綱]]を産んだ[[宝樹院|お楽の方]]を見出し、側室としたのも祖心尼である{{要出典}}。一方、祖心尼は暴走しがちであった春日局との正面からの対立を避けつつ、根回しなどを駆使してこれを諌めた{{要出典}}。家光の側室探しに躍起になっていた春日局が、伊勢慶光院の院主であった[[永光院|お万の方]]を強引に側室にしようとした際には、自らと同じ仏道を志す尼としての立場から、お万の方を伊勢に帰すために尽力した{{要出典}}。この努力は結果的には押し切られているが、以後、お万の方のの心の拠り所となったようである。
 
寛永20年(1643年)9月に春日局が死去。臨終に際して、局は祖心尼を呼び、自らが就いていた大奥総取締(大奥を統括する[[御年寄]])の後継者に指名、家光を託したと言われている{{要出典}}。祖心尼はこれを受けるが、大奥はこの後、指名を受けた祖心尼と、家光の寵愛を受けたお万の方の共同指導体制となる。
 
祖心尼は、将軍にも禅を説き、やがて、家光は祖心尼に幕府[[祐筆]]の[[大橋龍慶]]屋敷跡を寺領を寄進して寺院建立を指示し、祖心尼を開基として済松寺が建立される。家光は臨終の際に祖心尼を呼び、『わが身は日光に葬られても、わが心はこの済松寺に留まる』と言い残した。