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1922年、創立間もない[[日本拳闘倶楽部]](日倶)に入門、頭角を現し、荻野貞行、横山金三郎、久場清らとともに“日倶の四天王”と呼ばれる。1924年、師である渡辺勇次郎の時期尚早との制止を振り切り荻野らと上海遠征を敢行、敗北を喫して帰国、これが原因で日倶を破門された。神戸の大日拳に移り、同年、大日拳認定のジュニア・ライト級チャンピオンとなる。1927年6月4日、グレゴリー・サデリンを破りライト級チャンピオンに。のち「クインズベリー倶楽部」を創立、選手として活躍する傍ら後進の指導に当たった。1929年10月30日、新進の強打者平川末男に17回ダウンさせられる屈辱の2回KO負けを喫した後は熊谷二郎、ヤング・ゴンザロらにも敗れ、1932年に引退。引退後は早稲田大その他でコーチをした後、会社勤めとなり、1958年に死去。
== 関連項目 ==
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[[Category:日本のボクサー|たなか ていのすけ]]
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