「相模三浦氏」の版間の差分

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その後[[足利尊氏]]が鎌倉幕府に対し兵を挙げると、時の三浦氏当主[[三浦時継]]は足利方について戦う。鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立した後は、時継は相模国・武蔵国などの地頭となった。
 
その後、[[南北朝時代_(日本)|南北朝の分裂]]以後、関東では地域を二分する争いがたびたび起こるが、三浦氏は巧妙に立ちまわり、家名を保ちやがて相模国の[[守護]]となる。だが、[[三浦高明]]の代に[[上杉禅秀の乱]]に加担した事を理由に守護職を奪われて新しく守護となった[[扇谷上杉家]]の勢力下に入った(一説には三浦氏の弱体化を狙った[[鎌倉府]]の謀略であるとされている)。
 
しかし1516年に[[後北条氏]]の[[北条早雲]]の大軍に攻められ、[[三浦義同]]・[[三浦義意|義意]]親子は自刃。三浦氏は滅亡した。