「パラワン島」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
歴史:en:Palawan 11:47, 2 March 2007 より
18行目:
 
こうした急速な入植は、人口過密で土地を持つ者と持たない者との対立が深刻なヴィサヤ地方の問題を解決するための政策でもあったが、先住民の生活や島の環境との間に摩擦も起こしている。
 
== 歴史 ==
植民地時代以前、パラワン島にはボルネオ島からフィリピン諸島へ島伝いに航海し移住するマレー系民族が多く立ち寄ったほか、中国やマレーの貿易商人たちも寄航し交易した。中国製の陶磁器があちこちの洞窟などで発見されている。
 
[[12世紀]]、マレー人たちが入植をはじめた。首長に率いられたこれらの入植者らは[[しょうが]]や[[ココナツ]]、[[砂糖]]、[[バナナ]]、[[サツマイモ]]、[[コメ]]などを栽培し、[[豚]]や[[ニワトリ]]を育てた。西経の手段は農業、漁業、狩猟などであった。
 
[[16世紀]]のスペイン人の来航後、まず北端のカラミアン諸島がフィリピン植民地の支配下となった。[[17世紀]]初頭にはスペイン人たちは[[クーヨー諸島]]など周囲の島々やパラワン本島北部の[[タイタイ]](Taytay)にも宣教師を送ったが、地元の[[ムスリム]]共同体の抵抗にあった。[[18世紀]]までにスペイン人はタイタイなどの町に教会を建て、[[モロ人]]の攻撃に備えて軍隊で防衛した。[[1749年]]、[[ブルネイ]]・スルタン国はパラワン南部をスペインに割譲した。
 
当初、パラワン地域(当時はパラグア Paragua とも呼ばれた)は北部のタイタイに州都を置くカラミアン州のみで支配していたが、後に三分割された。タイタイを州都として北部を支配するカスティーリャ州(Castilla)、プエルト・プリンセサを州都とし南部を支配するアストゥリアス州(Asturias)、プリンシペ・アルフォンソ(Principe Alfonso)を州都とする本島南端のバラバック諸島州であった。
 
[[1898年]]の[[フィリピン革命]]でスペイン人支配が終わると、[[アメリカ合衆国]]による支配が始まった。1903年に州の境界は変更され、パラワン州に再編されプエルト・プリンセサが州都となった。学校建設、農業の革新、住民の集住などの政策がアメリカ支配下で行われた。
 
第二次世界大戦では[[日本軍]]がパラワン島を占領したが、[[1944年]]ごろから連合軍の攻勢で多数の軍艦・輸送船が沈められるなど苦境に陥った。この時期、[[1944年]][[12月14日]]、日本軍は連合軍上陸を前に、プエルト・プリンセサにいた150人ほどの捕虜を塹壕に入れ、その上からガソリンを流し火を放った。塹壕を出て野山へ逃げようとしたものは射殺されたが、なお11人ほどが逃げ延びた。翌45年に起こった、ルソン島中部カバナトゥアン収容所からの連合軍捕虜脱走を描いた2005年の映画『ザ・グレート・レイド』のオープニングはこの事件がオープニングとなっている。
 
第二次大戦後はフィリピン中部からの移住者による開拓で人口が激増し、後には欧米人向けのリゾートも多く成立した。2001年5月にはアブ・サヤフと思われる集団により、プエルト・プリンセサ郊外のホンダ湾にあるドス・パルマス・リゾートから20人が拉致される事件が起き、米軍に支援された大規模な救出作戦が行われた。この事件後、パラワン島の警備は厳重になり、同種の事件は起きていない。
 
== 産業 ==